2020年1月26日日曜日

【Daily Open Windows】1月26日

一月二十六日

私にとっては、生きることはキリストです。(ピリピ一・二十一)

荒れ野では、生まれたままのいのちの全てがむき出しにされて、私たちは自分の弱さと空虚さを,すなわち、自分は何も持っていないことを知らされます。こうして、私たちはキリストの中に全てを見出し、困難を乗り越えて、手に入れることができるのです。何かを手に入れること、自分が受け継いだものに入ることの奥義とは何でしょうか?それは、全てのものが、『キリストの中』にあり、主こそが全て――私たちの主なるいのちと存在そのもの――となる境地にたどり着くことにあります。肉が切り捨てられ、私たちは、自己の存在におけるもっと深遠な事実として、神が、私たちの内側で、霊によって、あらゆることをしてくださるのでなければ、すべて、何の価値もないことを理解します。主と同じ完全さに至るために、私たちは、自分のための働きを終わらせなければなりません。この後、自分の弱さの上にあぐらをかいて、自分を慰めているだけでよければ、何も苦労もありませんが、ここで主は言われます、『上れ。占領せよ。』あなたが受け継ぐべきものは、この地上でなく、天におられるキリストの中にあり、また、あなたの完全さは、あなた自身の中ではなく、主の中にあります。あなたの空虚さの対極にあるのは、いつも主の完全さです。あなたの弱さの対極には、主の力強さがあります。あなたが受け継いだのは、主ご自身の全てであり、それは、イスラエルにとっての乳と蜜が流れる地に当たるものです。


パウロはテモテのことでこう言っています、『彼も、主のみわざに励んでいるからです』(第一コリント十六・十)。私たちが自分で行う働きは、いずれ終わる時が来て、私たち自身から出るものは何もなくなります。しかし、ここで神は、このような意味のことを言われます、『あなたが何ものでもないことによって、わたしは天と地を持つことになるのだ』と。ああ、それは、戒められ、自我を空にされた人となるため、御霊がご自身の活力によって、主イエス様の高潔なるご栄光を私たちの中に、そして、私たちを通して表すためです。『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためです』(エペソ三・十)。『それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、・・・お示しになるためでした。・・・私たちは神の作品なのです』(エペソ二・七、十)。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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