2020年1月29日水曜日

【Daily Open Windows】1月29日

一月二十九日

神は、・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされた。(ガラテヤ一・十五、十六)

霊的な識別能力、知覚、理解、また、知性は、どれも、極めて稀にしか見られないものです。その原因は様々です。自分の仕事に心を奪われていて、様々な心配があること、いつも急かされ、走り回っている生活、年代に特有の心から消えない不安などであり、そこに、心を干上がらせる宗教的な働きかけも外から加わって、心の中で神が語るべき場所を、何の力もない、役に立たない状態に貶めてしまいがちです。聖書は、ただひとつの啓示ではなく、啓示を含んでもいること、そして、聖書で語られる深遠な霊的事実を認め、理解することができるのは、その目と耳が既に開かれたものたち、ことばを換えれば、目覚めさせられたものたちに限られることを、おそらく、私たちは忘れてしまったのでしょう。


誰よりも忠実な主のしもべたちの中にも、未だに、御言葉の文字、各書の内容、語られる論題、主題、題目、概要、分析といったものだけに心が奪われていて、もっとも深い意味での『啓示』の内側にはない者たちがいます。(これは批判するために言っているのではありません。)自分の気持ちや頭に対する奉仕であって、心や精神に対して行う奉仕とは違うものになっていることは非常に多く見られます。前者の奉仕は、遅かれ早かれ、奉仕する側とされる側のどちらも、飽き飽きして、疲れ切ってしまいます。後者の場合は、そのどちらに対しても、主にあるいのちの奉仕であり、いつまでも新鮮な気持ちが尽きません。これは、奉仕を始めてすぐに起こることも、もっと、後になることもありますが、私たちの歴史の最良の日が来て、こう言うことができます、『御子を私の中に現すことが神の御心にかなった。』『私はそれを人からではなく、啓示によって受けた。』このとき、心の内側で多くのことが起こり始めているのですが、そこには、危機につながる多くの問題が内在していることがあります。その問題のひとつとは、私たちが今、まさに考えていること、すなわち、どこかで自我が目覚めて、ある特定の時点における神の思いと願いは何かを知ろうとすることです。このような啓示――聖書を通しての啓示――は、まさしく革命的ではありますが、損失をともなうことも多いものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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