2020年1月23日木曜日

【Daily Open Windows】1月23日

一月二十三日


わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ十・十)

思い出してください、『この方にいのちがあった』(ヨハネ一・四)。主は、他の人間たちと違った性質を持っているのでしょうか?生まれ持った性質において、主は、他の人間たちとは違うこと、そして、その違いは、この方にあるいのちから来ていることは、誰の目にも明らかです。このいのちが与えられるとき、それまでと違った何かを自覚するようになります。主イエス様を見てください!主が、本当に自覚したこととは何だったでしょう?それは、主がいつも話していたことであり、主の場合、それが何であったかは、あまりにも明白です。主は言われました、『わたしと父とは一つです』(ヨハネ十・三十)。『わたしがいつも、その(御父の)みこころにかなうことを行なうからです』(ヨハネ八・二十九)。『わたしが父の御名によって行なうわざ』(ヨハネ十・二十五)。ああ、ヨハネの御福音書にある、『御父』ということば!


イエス・キリストが日々、自覚していたのは、主が御父とひとつになっていること、すなわち、二人の間に存在していた一致でした。『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように』(ヨハネ十七・二十一)。主イエス様が心に強く意識していたことは、父なる神との何よりも緊密な一致であり、それは、神のいのちそのものが主の中にあったからでした。主の生活とは、神を常に意識した生活でしたが、そこでは、完全なる一致という意味において、神を意識していたのです。そして、これが、主にあるいのちを得るということの意味です。人は、このいのちを持ったことはなかったのです。イエス様が来られたのは、人としてご自身の中に、このいのちをもたらすためであって、神との一致について語るためではなく、神と一致した生涯を生き抜くためであり、また、弟子たちを同じ一致へと導くためでした。『わたしが来たのは、羊がいのちを得るためです。』別の言い方をすれば、『私が来たのは、私が持っているのと同じ意識を、彼らも父なる神に対して持つためであり、また、彼らが自分の中に、私と同じ、神の性質を宿すためです。』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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