2020年1月16日木曜日

【Daily Open Windows】1月16日

一月十六日


勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示録三・二十一)

よみがえられたキリストとひとつになっていれば、私たちは誰もが、よみがえりのいのちを持っています。しかし、それ以上のものがあります。すなわち、そこには、よみがえりの力があり、その力がいずれは、私たちを(その力が完遂されれば)主の御座へと運んでくれます。すべての者がその御座に到達するわけではありません。それは、『勝利を得る者』だけに起こることです。カレブはパウロのように、また、パウロはカレブのように、主の人々が望んだ安易な道の前に立ちはだかったのです。ほとんどの者たちは、自分たちが受け継いだものを見て、これほどたくさんのものを持っていることに満足し、前に進むことをやめて、その場にとどまることを選びました。その行程は途中で終わり、霊的な進歩はそこで押しとどめられて、神が意図し、願ったものよりもずっと小さな何かを受け入れたのです。大多数の者がその道を選んだ中、カレブは、決して満足せず、他の者たちの思いの前に立ちはだかりました。カレブはいつもそのように、神の大きな御心を表していないものであれば、相手のほうが多くても、臆することなく彼らに立ち向かってきました。・・・


霊的な指導者でいることには、常に孤独が伴います。それは、支払わなければならない代償です。勝利を得る者は常に、より大きなキリスト者の社会から見れば、小さな孤立した群れとなり、ついて来てくれるわずかな者たちと進んでいくしかありません。大衆の声を受け入れることを拒んだカレブの心は、はっきりと主だけに向けられていました。カレブは、完全に主に従い、キリスト者の多くが選ぶ当たり前の生き方には従いませんでした。カレブこそまさしく、神が全ての人にこうあって欲しいと願っていた姿を具体化した存在であったと言えるでしょう。カレブを見れば、そこには、神がイスラエル全体にそうあって欲しいと願った姿があります。しかし、イスラエル全体が、カレブの水準に達することはありませんでした。しかし、カレブの中に、主はその御心を達成されています。主は、カレブの中に御心のすべてを実現されています。これは、パウロの中にされたのと同じことです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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