2016年10月18日火曜日

心から心への言葉[51]キリストの体の部分となるために

[51]キリストの体の部分となるために
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私たちは十字架がすべての中心であると信じています。しかし、十字架そのものが目標ではありません。十字架は神のきよい目的を理解するための道であり、その目的とはキリストの体です。十字架が生活の中で働くことができれば、自分がキリストの体の一部となったことが分かるでしょう。

多くの信者は、聖さこそが自分の勝利であるかのように追い求めますし、確かにそれは価値あるものです。しかし、神が霊的な経験を与えるのは、私たちがキリストの体の部分となるためであり、霊的な巨人として世界に出てゆくためではないことを心にとめましょう。

私をキリストの体の部分としてくれるものは何でしょう?神が私にキリストの体を見させてくれたら、その啓示は私の生活をどのように変えるでしょう?新しいところに光を当てて、何かを説明してくれるだけでしょうか?いや、この啓示は人生を根底から覆すものでなくてはなりません。それはまさに、私がいかにしてキリストの体の部分とされたかという啓示です!これまでに経験したことや、これから行うことではなく、内なるキリストこそが私を御体の一部としてくださるのです。

私をキリストの体の部分としてくれるものは、自分が持つ能力や行いから出るのではなく、私の中の主のいのちを通して現れます。キリストの体とはキリストだからです。

使徒パウロは、コリント人への第1の手紙の中で説明しました、『ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です(12:12)。』この一続きの言葉の中で、パウロは文法的にも、霊的にも、何ひとつ間違いをおかしていません。文法に関しては、パウロは最後の一文をこう書くべきだったと言う人もいるかもしれません、『キリストと教会もそれと同様です。』しかし、この使徒が言おうとしたことは、かしらはキリストであり、体もまた、キリストであることです。キリストから来るものはすべてが御体を形作るのに対して、キリストから来ていない物は何ひとつこの体に加わることはできず、切り捨てるしかないからです。

従って、これは何を加えるかでなく、何を差し引くかという問題です。すなわち、キリストの信者が、キリストの体に入り、その一部となるために、何を得たり、何かをする必要はありません。信者に必要なのはただ、自分の持てるものをすべて取り除くことです。そして、まさにこの時点で十字架が目の前に現れます。私から、キリストの体の部分となり得ないものを全て取り除くために、神が用いるのはただひとつ、十字架だからです。私自身の中から生まれる性質や気性といったものは、切り捨てる必要があります。中には、とても利口な信者もおり、自分の明晰さを通して、神の言葉を理解し、人に伝えることさえできると信じています。しかし、このような考えは捨て去らなければなりません。何としても、自分の心から抜け出すことが必要です。頭には救いの兜をかぶらなくてはなりません(エペソ6:17前半)。

キリストの体を知り、体験するためには、大きな犠牲が伴うことを理解しなくてはなりません。これはいのちの根源に関わるものです。なぜなら、キリストの体の中では、一部分だけの独立した行動は一切、行うことができないからです。この体の中では、気ままな行動は許されません。人間の体の中も、キリストの霊的な体でも同じことです。手が動けば、腕の筋肉も動かないわけにはいきません。腕が動くとき、指も必ず従います。これが意味するのは、キリストの体においては個人的な言動は全て、消し去るしかないということです。私たちは誰もが、キリストの御体の部分として、協調して動き、お互いに支えあわなければなりません。誰一人、自分だけで存在することはできず、ひとりひとりが兄弟たちと手を取り合って、前に進まなければいけません。

さて、本当にキリストの体を見たなら、他のかしらを持つことはきっぱりと拒絶しなくてはなりません。かしらであるキリストと共にあることはできないからです。ダビデには二人の敵がいました。ゴリアテとサウルです。一人は外にいる敵であり、もう一人は内側にいました。そのどちらも、かしらとしての性格を持っていたことに注意してください(第1サムエル17章4節、10~23節を参照)。頭から生まれる思いや考えと言ったものは、油注がれた者(この場合はダビデ)がイスラエルのかしら、王となって、玉座につく妨げとなります。ある日、ダビデの放った石が額に一撃を与え、ゴリアテを倒しました。まったく同じ日に、(油は注がれても神に拒絶されることになった)サウルの命運も定まりました。私たちは、この世界のあり方を撃ち破る必要はありません。私たちの格闘は、『血肉に対するものではないからです(エペソ6:12前半)。』ゴリアテが倒された時、かしらであったサウルの問題も解決したのです。

本当に十字架を知っていれば、それはあなたをキリストの体の経験へと導くはずです。多くのキリスト者が、主と、十字架の深い意味を分かっているつもりでいます。また、彼らは自分がキリストの体の真実を理解しており、すべてのキリストを信じる兄弟たちと、キリストにおいて一つになっていると主張します。誰もが、古い人を捨て去らなければならないと断言します。それなのに、古い人の性質から実際に離れることができないでいるとは悲劇的なことです。心にとめておいてください。過去も、現在においても、神があなたの人生で起こされたことはみな、キリストの体を経験するための用意だったのです。主が私たちの内になされることはその全てが、道を整えて、キリストの体の部分として役に立つものとするための備えです。

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