2020年12月26日土曜日

【Daily Open Windows】12月26日

十二月二十六日

どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。(第一コリント三・十)

言葉をかえれば、何よりも大切なのは、キリスト教の教義を、知性によって調べ上げて理解することではなく、キリストを生きた、明白なかたちで霊的に捉えることです。これこそ、行うべきことです。あなたは何を建てているのでしょう?主イエス様との生きた、明白な、内的で経験的な関係を通して、心の中の霊的な知識から生まれる建物を作っていますか?あなたは、それによって成長しているのでしょうか?それとも、人に言われたことや、自分の頭で判断し、評価し、分析し、受け入れ、そして、納得したことによって成長しているのですか?建てることの本質とは何でしょう?私たちが携わっている仕事、み言葉にある『それぞれの働き』が指しているものとは、キリストを、私たちの人格を形成する材料、生活の骨組みとして、生き生きと建て上げることです。キリスト教について深く知るということではありません。ここに注意しましょう。すべての問題の核心は、キリスト教やキリスト教義という哲学と、キリストの霊的な知識とのあいだの違いです。

主が私たちに教えてくれること――これは、私が心を傾けて学びたいこと、そして、あなたにも同じように追い求めて欲しいこと――とは、確信の土台は、私たちがキリストを信じると決意したことでも、キリスト者としての生き方に固執することでも、自分を強いと感じることでも、また、私たちがキリスト者として、何かの能力を持っていて、あれやこれやをできることでもありません。その土台とは、主の働きに私たちがどれだけ参加しているかという計りでもなく、キリスト者としての生活を構成している何かでもありません。これらは、産物でしかありません。私たちを作り上げているのは、キリストが土台であり、また、私たちが信仰によって、主と不可分に結ばれているという事実です。このことをはっきり確信できるまで、他の全てのことは放っておいて、後で考えればよいのです。

事実を明確にするために、簡単に説明させてもらうと、これはあたかも、神がご自身の御子をお与えになって、私たちにこう言われたようなものです、『この子の中に、あなたはすべてを持っている。そして、初めに考えるべきは、あなたが何者であるか、あなたに何ができるかではないし、あなたに関わりのあることですらない。この御子とは誰なのかということだ!』表面的には、自分の人生が弱く、不完全で、達成感がなく、矛盾に満ちているようにしか見えなくても、ただ、主は自分を目的地まで導いてくれる方であると信じ続けていれば、何があっても必ず切り抜けられるはずです。人は、自分自身にどれだけの価値があるか探り、何ができるかを推し量って、こう言います、『私はこうではないし、ああでもない、私は他のあれこれでもない。また、私はこうだ、私はああだ、そして、何もかも私に不利になるものばかりだ。』こんな考え方には、何の意味もありません。神が私たちに求めることは、すべてがキリストの中にあります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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