2020年12月17日木曜日

【Daily Open Windows】12月17日

十二月十七日

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント十二・九)

あなたにとって、力とはどのようなものですか?力について、あなたはどのようなものと捉えていますか?あなたは、必死で力を求め、欲していますか?それなら、力は次のようなかたちで得られます。神の立場からすれば、真の力は、十字架の受難の力の他にはありません。十字架に付けられたキリストこそが神の力です。十字架の受難の力とは何でしょう?そう、それは、自分を無にすること、自分を無にしたあなたや私です――実際に、それに耐え忍ぶことは、口で言うほど簡単ではありません!ああ、今も私たちの中には、どれだけの自我が残っていることでしょうか!自分を本当に無にすることを、私たちはとても嫌がって――苦しんで――います!自分の力のなさを感じること――自分には価値がないと認めること――は、本当につらいことです。ああ、力さえあれば!しかし、自分がもっとも空虚で弱かったときこそ、実は、神がもっとも大きな働きをされていた時間だったのであり、また、それによって栄光を受けられた時間であったことを、私たちは、何度も繰り返して、示してきたのではないでしょうか?そう、常にそうだったのです。

私たちはこの事実を、さまざまな経験を通し、それぞれの道を通って、学んできたのでが、神はそのあいだも、私たちの心の奥底に向けてまっすぐに働きかけ、目的を果たそうとしておられたのです――その目的とは、この事実が私たちの一部となることです。主には、外的な条件を用いて、その状態を維持する必要はありません。それでも、主はことあるごとに、この外的な条件――ときには肉体的な条件――を用いて、主ご自身に完全により頼む状況へと、私たちを導かれます。それは、押し付けられたり、強制されたのでは、十分とは言えないのではないのでしょうか?神はこのような方法で教育されるわけですが、私たちからすれば、健やかで元気に生き、また、これまでのように、神にすべてを任せきっていられるほうがずっとよいはずです。しかし、ここで、まず第一に、生活のすべてが、上から生まれることから生じるものに対する要求へと変化してゆきます。すなわち、手始めとして、全く新しくなった性質と性格が求められ、それから、神に、私たちを御子の似姿に変えていただくことも必要となります。そこに働きや言葉は入ってこないとは言っているのではありませんが、力を持たず、また、天からの介添えもなしに働き続け、語り続けることは、本当に心が折れそうになる仕事です。それによって何を求めているのか、主は、私たちに光を当てて、教えてくださいます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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