2020年12月6日日曜日

【Daily Open Windows】12月6日

十二月六日

あなたがたは、手でさわれる山に近づいているのではありません。・・・しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレムに近づいているのです。(ヘブル十二・十八、二十二)

『しかし、私たちは、近づいているのです』とありますが、この『しかし』以降は、初めの『ありません』の部分より、現実から離れていると思いますか?初めのほうは具体的であったが、私たちが近づいているというところは抽象的であると言いたいのでしょうか?それは違います。そこに関わる人たちにとって、その場所は間違いなく現実てあり、そして、愛する友よ、私たちが心を寄せるべき点はまさしくここ、すなわち、私たちが近づいている現実です。この全てをつぶさに調べ、自分なりに分析しようとしても、自分の感覚、心とたましいの感覚の中にいる限り、困惑するだけです。それはあまりに、理想的、空想的、目に見えない空気のようで、また、非現実的なものに見えてしまいます。つまり、生まれたままの者にとって、霊的な人など、現実には存在するはずっはありません。生まれたままの人間、たましいの人にとって、本質的に、霊的な存在である人などあり得ないのです。彼らの反応とはこのようなものです、『ああ、現実的になろう。地上に降りることにしよう。雲の中から出て、足をこの大地にしっかり付けよう。もっと現実的なことがらに心を向けようではないか。』これが、生まれたままの人間の霊的な人間に対する反応です。しかし、霊的な人にとっては、霊的なことがらの方が、この世の手で触れられるものよりも、はるかに現実的なのです。そして、非常に控えめに言っても、私たちが近づいている場所は、かつて民がシナイで到達した場所と、そこに至る道筋は違うものとはいえ、同じくらい現実的です。さて、ここで、動詞の時制に注目して欲しいと思います。この時制を使うことに大切な意味があるからです、『私たちはシオンの山に近づいている。』私たちは、そこに行くことにしたのではなく、これから出かけるのでもなく、いずれシオンに到着するのでもありません。そうではなく、『私たちは今、近づいている』のです。あなたたちは、『シオンのいただきを目指して進んでいる』とこれからも歌うでしょう。その気持ちは分かりますが、私たちは、シオンのいただきを目指して進んでいるのではありません。ここにある神のみ言葉は、『しかし、あなたがたは、シオンの山に近づいている』と、現在時制になっています。つまり、私たちは今、シオンにいることになっているのです。この違いが分かりますか?シナイとシオンの明白な違いがここにあります。しかし、二つは対比させるだけのものではなく、上で書いてきたように、この二つはただ差があるという以上に、ひとつは完結しているのです!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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