2020年12月1日火曜日

【Daily Open Windows】12月1日

十二月一日

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。(第一コリント二・十四)

ここで生まれながらの人間と呼ばれる者たちの中には、明らかな罪人がおり、『文明化された』(?)者からは、『暗闇に座っている』(なんと言う誤った比較でしょう!)と呼ばれる異邦人たちがいますが、同時に、ここには、文明の光に照らされ、もっとも見識にあふれた人たちも含まれています。世に広く知られた極めて優秀な頭脳も、この中に入っています。誰よりも学識があり、多くを学んできたおおぜいの人たちもそこにいます。自分から進んで学び、探求して、神学と神智学という領域の奥深くへと引き込まれた多くの者たちもいます。そう、その中には、『教会』と呼ばれる場所で、聖職や役職に就いた者たちも、数多く含まれています。人間的な視点から見れば、これらの者たちの多くは、道徳的にほとんど欠点のない生き方をしています。それでもなお、その世界、その生き方の中では、彼らは、『主にあるいのち』、すなわち、永遠のいのちを知ることはありません。それは、神のいのちであって、人間のいのちではないからです。もう一度、見てください!彼らは、どう描かれているでしょう?『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。・・・・また、それを悟ることができません。』


今ではよく知られているように、ギリシャ語で、『生まれながらの(natural)』にあたる単語は、心霊的(psychical)です。この正確さを欠く訳も、まったく不当なものとばかりもいえないでしょう。なぜなら、生まれながらの人間とは心霊的であり、心霊的な人間こそ生まれながらの人だからです。心霊的な人間は、霊的な人とは――いわば――違う種に属しているのです。このことばが暗示するように、心霊的な人間は、理性、感情、自分の意思に全面的に支配され、感覚の世界の内側に縛られています。しかし、何よりもまず、神の御霊から来るものは、その世界にはありません。確かに、霊的な力は、心霊的な集団の上に表れることができるし、実際にそうなるのですが、心霊的な集団は、霊的な力を知らず(心霊術が妄想や欺きに過ぎないのはこのためです)、これは、神から来ることにおいて、絶対的な真実です。心霊術の欺きは、心霊的な者たちの心に入り込む入口となるだけではなく、真に霊的な者、神の霊を持つ者と見せかける偽物も、この欺きを住処としています。福音主義、『使徒たちの』教えと実践(?)、『五旬節の』経験(?)、祈りの力、そして、悪魔祓いでさえ、ただ心霊的なものとなりうるのです。兆候、感情の高ぶり、衝動を、もっとも正統的な新約聖書のことばと教義で飾って、心霊的に作り出すことができ、そのために、イエス様の御名や血潮といったことば、用語でさえ、巧妙に利用されます。この壮大な欺き、ゆくゆくは大勢の人々の心を奪おうとする欺きから、確実に身を守るただひとつの方法とは、たましいと霊と、『生まれたままの』人間が生きる世界における十字架の絶え間ない働きについての御霊の教えをはっきりと理解することです。いえ、生まれたままの人間には絶対にできません!生まれたままの人間は、宗教的な知識、感情や感覚、行動であふれているかも知れませんが、聖書が、何であれ、何ごとか語り、言葉をとどろかせるとき、そのような人間こそ、誰よりも、誤解され、欺かれることになります。天才が達することができる最上の高みも、神から来るひらめきと啓示のもっと低いところにさえ、到底、及ばないのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: