2020年12月14日月曜日

【Daily Open Windows】12月14日

十二月十四日

愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ四・十五)

この世界にあるものは、新しくなり、形を変えていきますが、神の目的はいつも同じです。神が見せるまぼろしは、見たことのない新しい方向から映されることはあっても、それは、神がはじめから示してきたものです。私たちは、自分を合わせられるでしょうか?『古くなったもの』は、捨て去ればいいのでしょうか?過去にあったことが、正しかったか、間違っていたのかと、問いかけることなしに、私たちは、『前に進み』、そして、『成長』し、『達成』することができるでしょうか?神が見せるまぼろしが人を祈るものへと変えます。聖書に登場する人たちのことを思い返せば、明白なことです。彼らを、取るに足りない些細なことがらから、引き離したものは神が見せるまぼろしでした。祈りを生活に欠かすことができないものに変え、人を本当の苦しみの中で祈るものとするためには、神のまぼろしが必要です。聖書の預言者たちの祈りは、実に広大な範囲に及んでいました!それでも、とてつもなく大きな問題が、何度となく引き起こされました。私たちの神の見方ではなく、私たちの中に神が示されるまぼろしが、いつも躍動し、ものごとの価値を定めるのです。

最後に、どうしても指摘したいのですが、自分から行えば多くを得られたはずなのに、強制されて行ったために、多くを失うことがよくあるのです。これは、私たちが、主に仕えながらも、ときには身を引き、世から離れたところに立つことによって、主がより大きなまぼろしを見せる機会を与えることをしないからです。主に力強く仕え、すばらしい霊的な証しであったたくさんの働きが、かつての栄光、純粋さとその影響力を失ってしまうのは、それが、名前だけの『仕事』、『運動』、団体となってしまい、また、それが持つ影響と責任が、神との『避けどころ』 をすべて失わせる原因となってしまったからです。この『避けどころ』とは、はたらきの手を休めて、他の何にもまして、主に対する本当の率直さだけが問われる場所です。主が、その奉仕を通して、預言者のまぼろしを送り、主の完全な意味に導こうとしても、私たちは、忙しすぎて余裕がありません。こんなふうに心を奪われていることは、何という悲劇でしょうか!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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