2020年12月2日水曜日

【Daily Open Windows】12月2日

十二月二日

なぜならば、ふたりまたは三人が、私の名によって<おいて>集まる<私の信奉者としていっしょ に集められる>所では、それがどこであっても彼らのまん中に私がいる<私は有る>からである。(マタイ十八・二十詳訳聖書)

真理そのものであるイエス様は、偽り者であるサタンとは対照的です。しかし、主は人の手による描写、類型、象徴や表面的な形式などとも、対照を成しており、こういったものは、真理でも現実ではなかったし、今でも、そうではないのです。私たちの主が、御体を宮に例えられたとき、聴衆たちが偏見で凝り固まっていたため、その全容を説明することを意図的に避けられたのですが、それでも、ある摂理から別の摂理への転換、そして、宮と礼拝の性質が完全に変わることの大きな意味を、初めて世に知らしめました。ステパノは、この事実を語ったたため、それを聞いた人たちに殺されました。彼が言ったこととは、『いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません』(使徒七・四十八)。パウロがアテネの人々に言ったことも同じです(使徒十七・二十四)。人々が完全に神の思いと一致していた時は、神は絶対にご自身を現さなかったという意味ではありません。神の幕屋と宮は、どちらも、『手で造られた』ものであり、神は、力と栄光のうちにそこに入られましたが、それは、ご自身をその場にゆだねるためではなかったのです。時が来て、神が幕屋と宮から離れると、そこに、神は見られなくなりました。神は、そこでは、一時的にご自身を現されただけであり、神の臨在は限られた条件の下でのみ起こりました。


『人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋』(ヘブル八・二)は、『造られた物』ではなかったのです。ヘブル人への手紙全体は、この世的で一時的なものから、天的で霊的なものへの変化について語っています。そう、主はもはや、『手で造った家』には住まないのです。単刀直入に言えば、新約聖書が教えているのは、この新しい摂理における宮とは、人としての主であり、また、死、埋葬、よみがえりを通して主とひとつになり、また、『一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受けた』(第一コリント)民のことです。

この世俗的な制度は、その中心、象徴としてのエルサレムとともに、いずれは全て消え去ると、イエス様が予言されたことも、私たちは憶えておかなければなりません。地上にある一時的で物質的なもの、場所、制度、特定の地や表面的な形式といったものは、消えるときが来ることを初めから予見しておられた主イエス様は、その後に残るものの全てを自身の身に負われ、地獄の力でさえも太刀打ちできない、霊的な構造を残されました。主ご自身とその臨在が、特定の場所に結びつけられ、制度化されたことを、主は強く否定され、また、主が正しかったことは、歴史が証明しています。ヨハネ三章十六節にあるように、救いが、『ひとりのこらず』誰にでも与えられるものとすれば、主の臨在と真の礼拝は、マタイ十八章二十節によれば、『どこでも』あるものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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