2020年12月13日日曜日

【Daily Open Windows】12月13日

十二月十三日

あなたがたの心の目がはっきり見えるようになりますように。(エペソ一・十八)

『あなたがたの心の目がはっきり・・・・』見たものとは、すべてを見抜く愛です。天が地から離れているほどに、愛は盲目から遠く離れています。『愛は盲目』ですか?いいえ――真実の愛は違います。事実、真実の愛は全てを見ながらも、すべてを超えるものです。弟子たちに対するキリストの愛は、相手のことを何も知らない盲目的な愛、だまされ、欺かれ、惑わされた愛ではなく、結局は、弟子たちは、主が見込んだような者ではないことを見抜いていました。そう、『イエスはすべての人を知っておられた』(ヨハネ二・二十四)のです。主の愛はすべてを見通しており、弟子たちがいずれ何をするか、始めから正確に語ることができました。それでも、愛は変わることなく続きました。愛とは、すべてを見抜く、大きなものです。

主への燃えるような愛に駆られていたら、あなたは、疑わしいもの、嘘が隠れているものを、すばやく嗅ぎ分けることができるでしょう。あなたは、何か正しくないことが起こるたびに、それをひとつひとつ、誰かに示してもらう必要はありません。その代わり、何か、正されなければならないことが生じたとき、すぐにそれがあなたの目に届き、気づくように、主への愛が助けてくれます。それが何か、その時は分からないこともありますが、何かが間違っていることを、あなたは感じ取ります。愛がそうするのです。世が教えるものはたくさんありますが、このようにあなたを助けてはくれません。このようなときにはいつでも、あなたは、自分のもとに送られる神のみ言葉を受け取って、こう言うことができます、『分かりました、あなたがそう言われるから、聖書にそう書かれているから、私はそれを行い、心から従います。』これだけで十分であると、思いますか?自分の心の目を通しては、このような思いが届いたことは、一度もありません。

しかし、言っておきますが、もし、この愛、すべてを見抜くこの愛が、内住の御霊という大きな知性によって、本当にあなたの心を満たしたときは、人に教えられなくてもそのことを感じます。あるいは、この愛が神のみ言葉から届けられるとき、心の中から、『そうだ、これが正しいことが分かる、それが正しいと主が教えてくださる』という声が聞こえます。このようなキリスト者こそ、今、求められている、そして、最後に主が必要とされるものであると思いませんか?これこそ、主がすべての始まりから心に願っていたことであり、主がはじめの愛と呼ぶのは、切り落とすべきもの、付け加えるべきものが何か、正すべきところはどこかをすばやく嗅ぎ分け、その通りに行う愛のことです。人の後を追い回して、『こうしてください。こうすれば、誰かの助けになれるということが分からないのですか?』などという必要はありません。献身があり、いつも目を配る愛があり、生き生きとして、注意深く、鋭い知覚があり、指示を受けなくても自分から何かを行う用意ができていれば、このような必要はないのです。主に対する本当の献身は、律法を守ることより、はるかに大きく広がるものです。はじめの愛とは、見抜く愛です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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