2020年12月5日土曜日

【Daily Open Windows】12月5日

十二月五日

私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(ヘブル十三・十三)

私たちは、運動を組織して、計画を練り、構想を描くことができます。その活動は、どこから見ても新約聖書に即して組み立てられたものでありながら、死んだ、力のないものとなってしまうこともありえるのです。・・・・伝統的な制度――ユダヤ教であれ、キリスト教であれ――と、キリストご自身から、聖霊によって生まれ、いつも生きているもの、聖霊自身がおこなっている本当に生きたものとの違いは明白です。確かに、そこには何らかの代償が伴います。聖書に描かれた人たちに、何を起こったでしょうか。この手紙の最後にこのようにあります、『ですから、イエスも、・・・・門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。』宿営とはユダヤ教のことであり、主が門の外で苦しみを受けられたのは、ユダヤ教を完全に否定し、神の御心のすべてを、ご自身の中に実現しようと立ち上がったからです。主は、すべてを、ご自身の人格の中にまとめ上げました、『わたしがそれです。』キリストこそが、神のすべての願いとあり方を総和し、体現された姿であり、それは、ユダヤ教に取って代わるものであるため、主は、ユダヤ教を完全に否定して、門の外で苦しみを受けられたのです。『宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。』


問題はどこにあるのでしょう?この同じ道を歩んでいこうとすれば、あなたは、組織化されたキリスト教を否定し、伝統的な制度としてのキリスト教世界を否定し、完成された社会の秩序を否定し、そして、これによって、非難を受け、主と同じ非難に苦しみながら、宿営の外に出ることになるのです。言葉をかえれば、その瞬間、私たちは、主イエス様の死と復活と昇天を通してこの世界に入ってきたもの、天から来るものを押しとどめようとする敵対者の軍勢と対峙することになります。この人々が、歴史的に神に仕えてきた者たち、自分は神の託宣を受けて選ばれ、主に愛されていると主張する者たちを通して、敵と向かい合ってきたのは悲しいことではないでしょうか?いつも、このようなことが起こります。『さらに、家族の者がその人の敵となります。』これを、一人だけがキリスト者で、他は未信者である家庭のことと限定して考えてはいけません。決して、そのような問題ではないのです。それは、その人自身の家、キリスト者である家族のことです。あなたは、天から降りてきたものに対する敵意に出会うことになります。神の摂理に生きている、伝統的な神の民の敵意を目の当たりにします。必ず、そうなります。それが、主なるいのちを生き、人ではなく、主ともにあるいのちを歩むこと、自分自身のために主を知ることの代償です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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