2020年3月3日火曜日

【Daily Open Windows】3月3日

三月三日

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。(ルカ十二・四十九)

火の前には、なにひとつ隠れることはできません。這うように進み、入り込み、そして、燃え広がる火は、そこで、焼き尽くすことができるものと、その力が及ばないものを、はっきり区別します。火は、そこにあるもの全てを、このふたつのどちらかに分けます。すなわち、見つけ出し、分別し、決定します。ルカ十二・五十一の文脈を見てください、『あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。』主は、こう続けます――『今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。・・・』――すなわち、ここで、分別が行われ、全てが、それぞれの属する区分に分けられるのです。


神からきているがゆえに、火が来ても、その場にとどまって、生き続け、耐え抜くことができるものが、ひとつ目の区分に入ります。別の区分に入るのは、この火に舐め尽くされ、存在そのものが完全に消えてしまうものです。『この火がその力で各人の働きの真価をためすからです』と、パウロは言っています(第一コリント三・十三)。逃れることができず、何ひとつ見逃さず、二つに分ける火。私たちを、それぞれが属する場所へと送り込むのは、いつも、聖霊の働きの結果でした。これは常に、ものごとを分断するという働きです。あなたは支えるものですか、それとも、逆らうものですか?あなたは、主とともにいますか、それとも、主から離れていますか?あなたは、主とともに進むものですか、それとも、主とともには進まないものですか?聖霊は、いつでも、私たちを探し出し、このようにどちらかに区分することをやめませんが、これは、聖霊が働いたとき、私たちが明白にどちらかに分けられるためです。分別はすでに始まっており、そこから逃れることはできません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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