2020年3月5日木曜日

【Daily Open Windows】3月5日

三月五日

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ一・十二)

私たちの中で、この世の泉を味わって来た人たちは、魂にかかわる性質の面で、その泉にあるものと、宗教の中にあるものの共通点に気づいています。このふたつは、属している場所が違うだけであって、その本質は同じです。この世の音楽や芝居が、一方的に生み出すものは――魂をかきたて、奮起させ、切望させるもの、情念、涙、侮蔑、憎悪、怒り、憂鬱、喜びなど――すべて同じようなものに過ぎず、それぞれを支える人が異なり、また、設定が違っているだけであって、実のところ、このようなものはいずれ消え去ってしまうし、私たちも、そこに何かを追い求めることはしません。多少ましな音楽、新しい説教者、行ったことのない土地、心をかき立てる物語が、私たちの魂を刺激することもあるでしょうが、結局、私たちは、どこにいるのでしょう?サタンは、仮面の下でどれだけ笑っていることでしょうか!ああ、現実、永遠についての現実のために!この世について言えば、美しく崇高なものに対する鋭敏な感覚を持ち、高い教養にあふれた魂は、浅ましい魂よりも遙かに喜ばれはしますが、これは必ずしも、そのような魂を持った人が、神――人格を持った神――について、個人的な生きた知識を持っており、また、本当に新しく生まれているという尺度とはならないということを、誰もが理解できますように!『信仰の復興』のために祈る時は、自分が何を求めているのか、そして、その考えを広め、実際に推し進めるために、どのような手段を用いるか、気を付けましょう。・・・・使徒パウロが、明らかにしているように、彼の人生と奉仕の全てをつかさどっていた秘訣とは、自分の福音を『啓示によって』受けたという事実でした。聖書を一冊の本として、ほとんど完璧に知っていたとしても、私たちは霊的には死んでいて、役に立たないこともありえます。聖書は、永遠のいのちの基礎として、神の知識と真実について多くを語り、それによって、人は自由になり、思うように利用されますが、同時に、聖書は、人は探求することによって、神を見い出すことはできないと明言しており、そのためには、生まれたままの心の中ではなく、霊の中の知識が求められることを繰り返し、明らかにしています。ですから、いくら、豊富な聖書知識を持ち、キリスト教の教理を専門家として厳密に理解し、生まれながらの人間的な知恵や能力といった資質を駆使してキリスト者としての働きを行い、聖書の内容や主題を巧みに組み合わせて人の心を惹くように語っても、それによって、人の生まれながらのいのちを超えることはできないし、人は依然として霊的な死という世界の内側にとどまったままです。議論したり、説得されたり、魅了されたり、関心を持ったり、『興奮』させられたり、自分で志したり、熱意を持ったり、感動させることによって、人を天の御国へと向かわせることはできません。人はただ、その中へと生まれるしかなく、それは、霊的に生き返ることによって行われます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: