2020年3月10日火曜日

【Daily Open Windows】3月10日

三月十日

わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ六・三十五)

『わたしがいのちのパンです』(ヨハネ六・三十五)。『わたしは、世の光です』(ヨハネ八・十二)。『わたしは良い牧者です』(ヨハネ十・十四)。『わたしはまことのぶどうの木です』(ヨハネ十五・一)。『わたしは、よみがえりです。いのちです』(ヨハネ十一・二十五)。ここに、私は何であるかというすばらしいことばが並び、主がどのようなお方であるかが、告げられています。そして、主が、このことばを、『このようになります』ということばと結び付けることが非常に多いことにお気づきでしょう。ヨハネの福音書に見られる、『わたしは何です』からつながる、『こうなります』は、強く心に残るものです――必ずしも、この同じことばを使っているわけではありませんが、文脈としては、同じ結論に至ります。しかし、ここでは、『こうなります』の例を、いくつか挙げてみます。『わたしはいのちのパンです。・・・・このパンを食べる者は永遠に生きます』(ヨハネ六・五十八)。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがありません』(ヨハネ八・十二)。主が描かれたご自身の姿と、私たちのあいだのつながりとは、すなわち、『わたしを信じる者。』主が言われる、ご自身は何々であるということばが、信じる者にとっての真実となるのです。『わたしを信じる者は、決して死ぬことがありません』(ヨハネ十一・二十六)、『・・・決して飢えることがありません』(ヨハネ六・三十五)、羊飼いのいない羊のようにさまようことは、決してありません。その人の現実生活には、羊飼いのように、生活の全てを支配し、つかさどるものがいます。『決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』ご自身は何であるという主のことばが、真実となります。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』ご自身が何かであるかというこのような主のことばは、あなたが信じるとき、意味を持ちます。


私たちが、何かということではありません。私は死んでおり、主は生きておられます。私は、いつか必ず死者となるのですが、信じさえすれば、いのちそのものである主が、死に当たっても、私の中でいのちとなってくださいます。私は空腹で、霊的に飢えていますが、主はパンであり、私はもはや餓える必要はありません。私の中に、いつも飢えがあってもなお、主が、生きるパンとなって、私を支えてくれます。こう考えてみてください!私は、飢える必要はありません。私は、遠く離れた国へと降りたち、一人ぼっちで、誰とも交わることなく、食べ物もありません。私は、霊的なパンがひとつもない離れた場所に一人、取り残されていますが、そこで、主は言われます、『わたしを食べる者は、決して飢えることがありません』と。こうなるために、私はどこか特定の場所にいて、霊的な肉が手に入る特別な状況と環境に置かれなければならないのでしょうか?いいえ、それは主ご自身であって、特定の場所のことではありません。主ご自身であって、特定の状況を指しているのではありません。では、どうすれば、そうなるのでしょう?――『信じる者』であればよいのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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