2020年3月8日日曜日

【Daily Open Windows】3月8日

三月八日

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。(ヨハネ五・三十九)

聖職者の務めとは、主からいただいたいのちの表現であり、制服や肩書きを身にまとうことではありません。かつては私も聖職にあることを、特定の種類の働きに入ること、通常の仕事から離れて、そう、聖職者となることだと考えていました!人はこのように、何かにはまり込んでしまいます。実に多くの人たちが、このような考えの中で奮闘し、身を粉にして働き、失望しながらも、いろいろな決め事からなる秩序から離れることを恐れ、神からの召しと思い込んでいるものに逆らわないように努めています。他にも、それが生活のすべであるという理由で、聖職から抜け出せない人たちも多く、彼らもまた、失望し続けています。これは、すべて偽物です。聖職とは、このような制度的なものではありません。


聖職とは、主にあるいのちの表現であり、言葉を換えれば、それは、内住のキリストが成し遂げられる働きに他なりません。男であれ、女であれ、これとは違う土台の上に立って、務めるものは大きな困難と出会うことになります。主が私たちの中に機会を得、そして、私たちが、この正しい土台に立って、本当に主に信頼するとき、そして、自分の場所をこの土台の上に置くとき、そこに十分な務めがあることを、主は私たちに示してくださるでしょう。私たちは、駆け回って自分の務めを探すこともなくなります。非常に多くの場合、本当にたいへんなのは、私たちがこの正しい土台へと着くことであり、今のこの悪の時代、聖職というものの捕らえ方においてすら悪に満ちたこの時代から、私たちを解放し、天的な聖職へと向かわせるところです。主イエス様こそ、私たちが習うべき模範です。この天的なるお方は、自然なかたちで務めを果たされ、静穏に働かれるます。私も、こうありたいと切望しています!私たちが、散漫になってよいという意味ではなく、これによって、あまりに大きな無用の緊張から、私たちを解き放ってくれます。こうあるべきなのです。主が、天にある完全な備えとして、天なるいのちを受けた天なるお方が、私たちをこのような務めへと導いてくださいますように。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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