2020年3月30日月曜日

【Daily Open Windows】3月30日

三月三十日

子は、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・十九)

これこそが十字架の原理です。主は、自分からは何事も行うことができないという立場を受け入れました。すべては、神から来るのでなければなりません。そうでなければ、何も成しとげることはできません。・・・三十年前、私の人生に革命が起こったのですが、それは、この十字架の原理が私の聖職者としての務めの前に立ちふさがったときでした――それまで、何年にも渡って私が執り行ってきた務めです――この原理は、たくさんの書物を読んで学びながら遅くまで過ごした日々、聖職者としての務めのために積み上げてきながら、いつしか、私自身の中でとても耐えられない重荷となっていたものの前に立ちはだかりました。他の人たちは、おそらく、それを非常に良いことと思ったでしょうが、実は大きな転機でした――男性も、女性も、聖職についている人、また、そうしたいと考えている人は、よく聞いてください――この原理、この十字架の原理を認めるべきときが来たのであり、それは、私が扉を閉めて、主にこう言ったときでした、『聖職者としての務めを、もう私はやりません。あなたが今、何かをしてくださらるのでなければ、私は説教もしません。私は、この務めを何年にも渡って続けてきたし、自分で仕事を整えてきましたが、もう、終わりにします。あなたこそ、それをやるべき方です。』ここで、私はあの原理、すなわち、十字架の原理を認めたのであり、そこではっきりと決断しました。


自分のことばかり語ってすみませんが、何とかして、話を元に戻したいのです。次の週には、私が教会の幹部たちに辞表を出していたでしょうし、主がそうなさらなければ、私は聖職から退いていたはずです。しかし、主の方はご自身の原理に忠実でした。そこで、私が主の務めとして自分からは何事かを生み出すことは、全くできなくなったのであり、私自身も本当にそうしようと思っていました。それは、神がそう望んでおられることがはっきり分かったからです。それが、十字架の原理でした――私たちからは何事も行うことはできません。頭と心を使った労働や学問から生まれる実は、決して、神の働きと奉仕で何かを成し遂げることはありません。神はご自身の原理に忠実でした――いつでも、そうです。その日から今日まで、主への奉仕のことで何の問題も起こっていません。聖職から離れるのは容易いことで、それを受け入れることよりもはるかに簡単です。何とか主の奉仕をしようと騒ぐ――これは十字架につけられていない肉がすることです。そう、あのときから天は開かれていたのです。こんなふうに個人的な問題に触れていることをお許しくださるよう、あらためてお願いします。しかし、これは本当のことです。これは、あらゆる場面に当てはまる原理です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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