2020年3月21日土曜日

【Daily Open Windows】3月21日

三月二十一日

神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル四・一)

新約聖書の著者たちのように、神の民の霊的な生活に対して、真に重荷と責任を感じている人たちにとって、もっとも悲しいことのひとつは、主とともにまっすぐに進んでいくと約束した多くの者たちが、どこかでわき道にそれて、主が与えようとしたものとは違う何か、あるいは、もっと小さな何かへと向きを変えてしまうことです。それは、必ずしも罪とか、世ではなく、他の何か、一時的には非常に大きな満足感を与えながら、後には、霊的成長を阻む道に入り込む転換点であったことが分かる何かです。そして、彼らは、逆流が入り込む袋小路にいて、気がつけば、『神のご計画の全体』とは違う何かに夢中になっています。彼らは、『新しい発見』、『光』、とか、『導き』について語り、緊張の緩和、特定の問題の解決、自己実現に向けた解放の約束、そして、圧力からの脱出という理由を挙げますが、目新しさや輝かしさが薄れてしまうと、そういったものが、『当てにならない小川』に過ぎず、熟す前に落ちるエリコの果実を成らせていたに過ぎなかったことに気づきます。・・・


危険や罠が、狡猾に、また、巧妙に、この『獲物』に向けられます。ある人の心を捉えるものが、他の人たちには、まったく心に響かないことがあります。何よりも霊的と見られるものが、もっとも霊的な人たちの前に示されます。私たちの持つ特別な気質が、それぞれにとって個別の危険となります。私たちは、これからもずっと、原則に支配さて生きなければならないのであって、感覚、嗜好、議論、または、自然の欲求に捕らえられてはいけないのです。知性による一時しのぎ、感情の高揚感、活動から来る満足感があっても、それを、疑い、吟味しなければりません。この問いがきわめて重要です。すなわち――それは、どこへと導くのでしょう?それは、その基本、本質において、神のただひとつの至上の目的へとつながっていくものでしょうか?

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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