2020年3月14日土曜日

【Daily Open Windows】3月14日

三月十四日

それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。(ヨハネ五・二十)

絶対的に神とひとつになっているものだけが、神が与える責任を負うことができます。自分にどのような肩書きをつけようと、主のためにどれだけ立派な行動を取ろうと、神にとっては何の意味もありません。神のもとに来て、『さて、主よ、私がこの働きに携わっていることをご存知なのですから、そこに手を貸していただきたいと思います』などと言っても、無駄なことです。このようなことは、主が私たちを助けるべき理由にはなりません。神は、ご自身の子供たちに寄り添って立たれ、内なる関係のみに基づいて、彼らとともに働かれます。『公式な聖職者』という立場にはない人の中にも、公的な聖職と立場にある人たちの多くよりも、主にとって、はるかに役に立つ人もいます。大切なのは、霊的な知識でも、聖職者としての公式の立場でもなく、私たちの神との隠された関係です。神は、私たちを、ご自身への奉仕にあうように霊的に変えられ、公職者としての立場ではなく、私たちの子供としての立場を守ってくれます。主が私たちの立場に目を止めるのは、私たちが、自分と主の関係を心に留めているときです。


神は、イスラエルをご自身の長子と呼ばれました。この長子であるという事実を基として、神は民のそばに立って、彼らを支えられました。このためにこそ、イスラエルは国々の中で、重要で特別な位置を占めることができたのです。イスラエルは、地上における神の証しのために選ばれた器でした。しかし、イスラエルにも、長子としての神との歩みが終わる日が来ました。イスラエルの神との内なる関係は、外的な形式に過ぎないものとなり、そして、神は民から身を引いて、彼らを囚われの身とさせるしかなくなったのです。イスラエルがここで、主に向かって、次のように不満をこぼしても、まったく無駄なことだったでしょう、『なぜ私たちをこんな目に合わせるのですか?私たちは、国々に対するあなたの代弁者ではなかったのですか?』神はこう答えられたはずです、『聖職者としての公式の立場など、わたしには何の意味もない。あなたがたのわたしへの関係が正しいものとなるまで、また、わたしの長子であることが意味し、要求するものにあなたがたが捕らえられるまで、わたしはあなたを助けることはできない。』私たちの立場と召命が、神の長子という存在と深くつながっていることがわかります。まさしく、このために、主イエス様は長子という立場を強調されたのです。主は、自分が完成させるために地上に送られたその責務を、御父が愛されたなどとは言っていません。主が言われたことばはこうです、『父は御子を愛しておられる。』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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