2020年3月15日日曜日

【Daily Open Windows】3月15日

三月十五日

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせてくださったのです。(コロサイ一・十九)

次に私が言おうとしていることは、なかなか受け入れがたいかもしれません。それを言うのも同じくらい難しいことではありますが、それでも、誠実であろうと思えば、このようなことも話さないわけにはいきません。このことについて、ある日、想像すらしなかったほどの驚きに見舞われるはずです。驚くほど大きな活力、そして、活動、そして、機構、そして、熱情と献身が主の働きの中、主への奉仕の中に存在しており、これが、実に大きなものを作り出し、また、非常に広い範囲に渡る何ごとかを行っているように見えます。さばきをくだすの私たちではありませんが、法を制定し、その法を認めるのは私たちであり、あるいは、神によって制定された法を認めるのは私たちであるというべきかもしれません。いずれ、すべての働き、すべての奉仕、すべての活動のあいだで釣り合いが取れ、その中で、いつまでも残るものは何か、また、永遠に過ぎ去るものは何かが定まるときがきて、神のための人間的な活力に過ぎなかったものはすべて消え去り、主のための人間の企てでしかなかったものはすべて消え去り、なんであれ、人間自体から出ていたものは、たとえ、それが神への献身からであろうと、すべてが失われます。キリストの活力、キリストの知恵、キリストの力だったものだけが残ることになります。神はあなたの活力も、私の活力も使ってはいません。神は、キリストの活力を用いることを、私たちに求めています。神は、なんであれ、人から出てきたものには、自分の証印を捺すことはできません。


神の証印は、御子から来るものの上にだけ捺されるのであって、何かが大きく広がっていて、神のための偉大な働きのように見えたからと言って、それが絶対に神のために違いないと決め付けてはいけません。私たちが、しっかりと確かめるべきは、その何かを推し進めているのは人間の推進力、団体の推進力、機構の推進力、神のための人間的な熱情と活力から来る推進力、また、計画的に考えられた推進力ではなく、それが聖霊に活力を与えられていること、その何かのいのちと力となっているのがキリスト自身であることです。人間の個性や活力、また、そういった種類のものが原動力である限り、最後には、そこから、非常に多くのものが消え去ってしまうに違いありません。歴史を振り返って、自分が神を代弁していると主張してきたものたちの姿を見渡してみれば、そのことがはっきりします。このようなことをいうのは、どこかに疑いや疑惑の雲を投げかけるためではなく、この真実、この基本的な真実の大切さをはっきりと示したいからです。これは、キリストへのねたみという線上にあります。いずれ、この宇宙に、キリストであるものの他は、何一つ残らないときが来ます。神の究極の目的のために存在するすべてのものは、キリストと固く結びついており、また、キリストの中にあること、そして、それはキリストそのものであることに、私たちは気づかなければなりません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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