2020年3月6日金曜日

【Daily Open Windows】3月6日

三月六日

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ五・一)

律法主義が、何度も繰り返してキリストを十字架に付けるのは、律法主義がキリスト信仰におけるもっとも偉大なことばを切り捨てるからです。真実のキリスト信仰へと通じる扉に掲げられたそのことばとは、『恵み』ということばです。律法主義は常に、主の『恵み』を拭い去り、『律法』で置き換えます。恵みは、キリスト者の語彙の中でも、もっとも大切なことばです。律法主義がもっとも完全なかたちで現わされるとき、それによって、常に、空の墓のあるべき場所に十字架が置かれることにお気づきでしょうか?キリスト者が胸に貼る記章とは、空の墓です。すなわち、『死者の中からのよみがえり』です。律法主義がつける記章は、十字架、『死んだキリスト』です。律法主義は常に死を持ち出すのに対し、キリストにまつわるもっとも大切な事実は、復活です。死者の中からよみがえったいのちです。神が、パウロの中に御子を喜んで啓示されたとき、パウロが理解するようになったのはこのことでした。そして、パウロは言いました、『この律法主義という制度から抜け出そう。私たちが十字架につけた、ナザレのイエスは生きている。この主は、私の心の中に、生きている人として示されたのだ。』


私たちも、本当にイエス・キリストを見れば、解放されるはずです。私たちの中にも、すでにこれを経験した人がいます。私たちは律法制度の中にいました。すなわち、この制度に囲まれた世界に住んでいました。それから、主が私たちの目を開いて、キリストの比類のなさを見せてくれる日が来ました。こうして、そこにあった制度のすべてが、まったく意味のないものとして、崩れ去りました。そう、私たちがすべきは、『ここから、あそこから出てきて、そことは違うこちら側に入りなさい』と告げることではありません。『こうしなければいけない』とか、『こうすべきである』ということばは、この世界にはありません。それは、古い律法の世界に属する言葉です。『こうしなければいけない』は、律法から生じるものではなく、霊的なものとなりました。パウロについて言えば、彼の霊のうちには、『こうしなければいけない』という力強いことばがありました。『私は主を見たし、主がどのような方であるか、今もますます、知り続けている。そして、それによって、私の中にこの偉大な責務が生まれている。「私は、ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、上に召してくださる神の栄冠を得るために、一心に走っています。」』ですから、私たちは、『新しい制度に切り替えなさい』とは言いません。私たちが言いたいのは、『自分の中に御子を啓示してくださるよう、主に願いなさい』ということです。人を解放する大きな働きが、ここから始まります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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