2016年5月1日日曜日

心から心への言葉[23]聖さと厳しさ

[23]聖さと厳しさ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

キリスト者とはもっとも、理不尽な人たちです。しかし、理不尽でありながらも、誰よりも愛情にあふれています。彼らは、天のことだけを思っています。主イエス様の愛しか持っていないのですから、とても理性的な人たちとは言えません。それでも、その愛は相手を選ぶことなく、すべての兄弟に向けられており、よい人でも、不快な相手でも変わりはありません。敵すらも愛しています。その故、もっとも愛情にあふれていながら、世に対しては、著しく理不尽な人たちです。

さて、聖くあることはキリスト者の目的のひとつです。しかし、よく気をつけていないと、その聖さは、人をつまずかせる石となってしまいます。このような信者は、人に厳しくなりがちで、彼らの聖さが相手を傷つけることがよくあります。キリスト者が聖くなるほど、人の罪が彼らの目に忌まわしいものと映り、これが期せずして、厳しい非難の言葉へとつながるからです。それに加え、キリスト者は、神を知らない人たちを、不合理でひどく子供じみていると、見てしまいがちです。こんなキリスト者は未信者を助けるどころか、批判ばかりしています。不幸なことに、このようなキリスト者ほど、自分は神の標準を守っていて、神の真実をよく証ししていると思い込んでしまうものです。

しかし、このようなキリスト者が忘れているのは、聖さは神だけが持つものであることです。自分がただの人間に過ぎないことを、自覚しなくてはいけません。信者は、神の聖さを、自分の聖さと考えることはできないのです。神の聖さは、怖れをもって見守るべきものであり、人の手には届きません。救われ、生まれ変わっているとはいえ、私たちは今も人間のままです。神の聖さが、人の聖さとなるために必要なのは、主イエス様のいのちを吹き込むことです。まさしく、主は聖さがかたちをとって現われたお方です。

霊においては、主は罪人と完全にかけ離れたお方です。ペテロがイエス様を見たとき、こう泣き叫ぶしかありませんでした、『私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』(ルカ5:8後半)しかし、一方で主は罪人の友であられます。社会からは拒絶されている取税人や遊女を、キリストは哀れみ、深く同情して、彼らへの慰めとなりました。ある面で、主は、罪人とかけ離れていることでご自身の聖さを示されますが、別の面では、罪人の友として、等しく聖い方であられます。キリストは、人を寄せ付けない方ではなく、また、厳しく接することもありません。信者たちの聖さもそれにならって、優美で暖かなものとなれば、人から愛され、讃えられます。ここから分かるように、人への厳しさは、聖さではありません。

このふたつの心のあり方、心の状態は全く違うものです。聖いのは確かに良いことです。しかし、聖くあるものは、自分を律することを恐れないと明言すべきです。十字架の道を歩くものなら、自己憐憫に耽ることは避けても、人に対しては、愛と哀れみを忘れないのは当たり前のことです。神は聖いだけでなく、また、恵みと哀れみにあふれています。私たちも、聖くはあっても、石のように冷たく、思いやりに欠けることがあってはいけません。神が私たちを救うのは、『人間らしさをなくする』ためではありません。むしろ反対で、私たちが『人間らしくない』からこそ、人間となれるように救うのです。私たちキリスト者は、理不尽で、不合理と思われてもいいですが、それでも、誰からも近づきやすい者でありたいものです。本当に聖いいのちからは信仰、やさしさ、平安と寛大が現れていなくてはいけません。羊飼いが、群れを養うように、私たちも忍耐強く人々に接しましょう。注ぎだされたいのちは、実を結びます。厳しさは人を遠ざけてしまいます。寛大さだけが人の心を溶かし、天国に続く道に引き込むのです。

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