2016年5月23日月曜日

心から心への言葉[25]罪の感覚

[25]罪の感覚
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

主の恵みを讃えながらも、私たちは罪を憎んでいません。罪は、世俗の人、聖人の心の中、どこに現れても忌まわしいものです。神の恵みを伝える働きは、栄光に満ちています。私たちは、誠実に、熱意を持って、恵みによる神の救いを世界へと広めなくてはなりません。しかし、神の恵みを広めながら、人の罪には触れずにおくなら、神の恵みを誤解しているだけでなく、その恵みを冒とくすることになります。神は、恵みと律法をもって、人を取り扱いますが、どちらであろうと、罪は裁かれ、拒絶されなければなりません。神の恵みを広めながら、罪を心地よく感じるなら、その人は神の恵みのことを何ひとつ知らないことになります。『恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。』(ローマ6:1後半)本当に生まれ変わった人なら、必ずこう答えるでしょう、『絶対にそんなことはありません。』(ローマ6:2前半)

罪を罪と考えない人々がいることは、神の誠実な聖徒の心を悲しませます。人は新しい言葉をいろいろと思いついては、罪を覆い隠そうとします。もっと悲しいことには、生まれ変わったキリスト者も、多くが罪を軽く考えてしまいます。神に与えられた罪の感覚を少しずつ失ってしまった信者たちがいるのは、なんとも残念なことです。彼らは罪と戦っていないわけではありません。彼らは戦ったのです!本当に生まれ変わったのであれば、キリスト者としての生活の始まった時、罪を憎んだはずだからです。彼らには罪を憎むという新しい性質が与えられました。必死の思いで罪に抵抗したのです。しかし、勝利よりも、敗北することが多かったために、意気消沈してしまったのでしょう。彼らは、罪に打ち負かされることを当たり前のように受け止め、また、自分が罪に勝利することなど不可能だと思い込んでいます。あまりに罪に汚されて、良心が麻痺してしまい、もはや、声高に罪を拒絶することすらないのです。どこまで堕落してしまったことでしょう!なんと悲しいことでしょう!

この人たちも第1ヨハネ1:9の教えを知っているはずです、『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』それでも、彼らは神の聖さをもてあそぶように、何をしようと神の恵みで許されると考え始めます。『罪を犯したら、許しを乞えばいいだけさ。罪を犯してもどうということはない。』言葉にこそしなくても、心の中ではこんなふうに決めつけているのです。

こうして多くの信者が失敗してしまいます。罪に対する正しい感覚を亡くしてしまうのです。現実に、霊の内で感じることと、肉の思いがほとんど同じになってゆきます。いつも心が傷つき、大きな苦しみを受けていると、罪に対する感覚は鈍くなります。罪を憎み、拒絶しなければ、私たちの良心は、鋭さを失ってゆきます。犯した罪を告白しなければ、そのたびに、良心はかたくなになります。こうして、罪への憎しみはついえてゆき、罪の感覚が消えてしまうのです。

私たちは、たくさんの小さな敗北を重ねています。つまらない嘘が、不信仰の行いを生み、義のない小さな行いを生み、それが敗北へとつながってゆきます。私たちは、良心に鑑みて自分を批判することなく、いつも自分を偽って、そんなことはどうでも良いと思い込もうとします。このような態度は、良心のとがめを抑え込んで、心をかたくなにします。私たちの心は、致命的な傷を負うことになります。自分の良心からの告発に耳をふさいで、罪を告白しなければ、罪を取り除くことはできるはずもなく、神の聖さの標準を満たすことさえできなくなります。自分が罪に対して過剰に反応しているのではないかと恐れる必要などありません!良心からの告発を受けて、自分を裁き、罪を消し去りたいと望むたびに、罪に対する感覚は鋭敏になっていきます。勝利を得る聖徒とは、自分を裁く信者のことです。罪人が、罪に対する究極の罰(すなわち地獄)を恐れるように、私たち信者も罪の力を恐れるべきです。いつも、この警戒を怠らず、心がかたくなにならないように気をつけて、罪に対する敏感さを失わないようにしましょう。霊が敏感さをなくせば、霊的ないのちが干上がってしまうからです。

罪を軽んじる人は、神の恵みも軽視しています。しかし、深い泥沼にはまった経験から、罪がどれほど恐ろしいものか気づいた人は、そこで見いだした神の恵みの大切さを知ります。小さな罪を犯しただけで、すぐに許されたと思いこんでいる人は、罪が許される恵みを理解することができません。

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