2020年6月2日火曜日

【Daily Open Windows】6月2日

六月二日

あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(第二テモテ一・八)

神の最終的な目的を、もっとも完全に近いかたちで証ししているものであっても、そこから、よかったもの、必要だったもの、神から来たものの多くを切り落として、後から来るものに備え、真に最終的な目的だけが語られるようにしなければなりません。人を捕らえるのは、真実と受け取られているものや、心に取り込まれた教義に対してではありません。それは、啓示に続く経験によって、また、経験に対して示される啓示によって、その存在の一本一本の繊維へと組み込まれます。人に認められている何かの考え方に賛同することではありません。捕らえられることこそが、主に用いられる器が生きる人生であり、そして、器であることがその人の存在そのものであるということです。それは、なりたいとか、なりたくないという問題ではなく、他のもの、囚人以外の何者にもなり得ないのであり、これは、神の支配がそのようにされたのです。


これは、パウロにも、また、パウロと行動をともにするようになった人たちにも起こったことです。この使徒にとって、投獄されて、神が支配する秩序に完全に従ったことが、大きくなる輝きの中で、霊的な解放へとつながってゆきました。『刑務所書簡』と呼ばれる一連の手紙の中に、神のための働きが大きく豊かになっていく様子を、誰もが読み取れるはずです。もしもパウロが、落ち着きがなく、怒りっぽく、反抗的で、あるいは、辛辣な人だったら、天が開かれることはなく、そして、主に従おうとしない精神が、神による全き解き明かしと清めへと通じる扉を閉じて、封印していたことでしょう。主の考えに立ってすべてを受け入れたとき、そこで、パウロの歩みは『天のところ』の全体へと永遠に広がり、そして、地上での束縛は、天から来る自由に場所を明け渡しました。他の何にもまして主の証しへの高い関心に動かされている主の器は、誰もがこの自由を与えられなければなりません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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