2020年6月24日水曜日

【Daily Open Windows】6月24日

六月二十四日

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものです。(第二テモテ一・九)

何か新しい、それまでになかった道、初めての申し出や立場と直面しているときは、必ずそのすべてを包むある問いがあって、私たちはそれを自分に問いかけるべきであり、また、その答えを十分に時間をかけて、じっくり考え、真剣に祈るべきです。その問いとはこれです――今、私の前にあるこのことは、このままで、神の目的の全体とまっすぐにつながる線の上にあり、主の御言葉の全体――限られた一片のことばではなく――の中に示されているだろうか?神ご自身が、明白に定められた目的を持ち、それが私たちにされること全ての究極の目標であることには、疑問の余地すらありません。神はまた、その目的が何であるかということを、あふれるほど明らかに示されました。さらに、信者たちは『神のご計画に従って召された』のであり、彼らには、自分が『召されたことと選ばれたこととを確かなものと』しなければならないことが、はっきりと示されています。


すべての真のキリスト者に課せられた義務と課題とは、この『永遠の目的』とは何であるかを、はっきりと理解できるまで学ぶことです。それができた後、私たちを働きに引き出する何かが生じたときは、そのひとつひとつがこの永遠の目的に照らして裁かれ、光の中で調べを受けなければなりません。私たちが、熱心にその答えを求めることなく、また、与えられた光に忠実でなかったら、神は、私たちの進む道に介入することはしないし、道の分岐点で光を当てて進むべき方向を示してもくれません。どちらが相対的に正しく、間違っているか、また、よいか悪いかという問いかけ、許容できるか、望ましいことか、都合がよいか、あるいは、方針に沿っているかといった判断に左右されるがままになっていては、前に進むことはできません。また、野心、魂の満足、『主に対する』過度の期待、キリスト教に拡大解釈といったものが、私たちの判断を色付けしたり、決定に影響することがあってはなりません。利益や代償は、ここで、何かを決定する要因とはなりません。あるひとつの質問、このただひとつの質問によって、悲劇か栄光かが決まります。すなわち、私の目の前にあるこのことは、神の完全な目的に真直ぐ通じる道に立っているのでしょうか?その道の終わりに達して、物語の全貌が語られ、総決算が行われるとき、そこに結ばれていたものの中から、どれだけが、キリストから来る実体がなく、そのため、永遠のときへと入っていくことができないものとして、捨て去られることになるのだろうか?この川は何を運び去り、そして、その向こう側には、何が現れるのでしょうか?

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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