2020年6月16日火曜日

【Daily Open Windows】6月16日

六月十六日

人に惑わされないように気をつけなさいわたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(マタイ二十四・四、五)

私たちが、宗教的な人たちについてもひとこと、言いたいと思うのは、同じことが彼らにも当てはまるからです。惑わす者の手口は、彼が働いている世界、彼が狙っている類いの人たち、すなわち、敬虔な信者たちにも使われているのです。そう、その人たちは、信仰心からだまされ、表現をかえれば、自分の強い信心のためにだまされているのであり、その信仰心とは強く、はっきりした妄想です。その妄想には力があり、その力が、多くの場合、惑わしに対抗しようという試みを全てとどめてしまいます。宗教的な人たちは、自分の宗教心によって、惑わされるのです!神についての事実を認めること、また、神に敬意、感謝や称賛を送ること、それ以上に期待できることととは何でしょう。神に関するものごとに積極的な関心を持つこと、宗教的な会合に参加すること、そして、宗教的な活動や関心にいつも忙しくしていること、あるいは、宗教的なものと宗教的な分野に最大の関心を向けることでしょうか?それ以上に、期待できることは何でしょう?そこから生じる問題とは何でしょうか?


どうか、忍耐をもち、がまんして、私がここで格別に強調したいことを聞いて欲しいのですが、実は、この全てが、巨大な妄想なのかもしれません。まさしく、先に書いたようなことが、ただひとつの根本的な事実、すなわち、神との真実で生きた関係を覆い隠してしまうことが多いのです。『あなたがたは新しく生まれなければならない』のであり、宗教がしばしば、この点を見えなくしてしまいます。ああ、宗教は、救いの論拠とはなりません。宗教は、地上のもっとも暗い場所にあるものです。宗教は、世界の至るところにあり、多くの場所では、堕落して、貶められています。しかし、それでも、その中で、自分は何か崇高な礼拝の対象とのつながりの中に立っているという意識、礼拝を求める考えが、世界に広く行き渡っています。ここから、人間的な考えや想像が働き始めて、この意識、この崇高なる礼拝の対象を何らかのかたちで表現しようとします。人間の想像力は、時には、それを木や石から削り出し、あるいは、み体なる教会の中に作り出します。礼拝の対象が、何かのかたちを取って表されますが、それは、普遍的な表現形式に従った何ものが、そこに置かれているに過ぎないのです。高度に文明化された多くの形式が、キリスト教文明の世界に持ち込まれましたが、それは同じものが広げられただけです。キリスト教世界のより知的で、文明的で、学識に基づいた神の解釈は、聖書から取られた考え方であっても、それが救いであるとは言われていません。その解釈は、強力な妄想であるかもしれず、実際にそうであることが多いのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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