2020年6月7日日曜日

【Daily Open Windows】6月7日

六月七日

文字は殺し、御霊は生かすからです。(第二コリント三・六)

どんなことでも、御霊の願いがどこにあるかを知りたいとおもえば、ければ、その方向へと、主のいのちによって突き動かされることから分かります。御霊が望まないものは何かを知りたければ、その方向に向かうとき、あなたの霊に死があること、その方向には、言わば、主のいのちがないことから分かります。そのとおり、これが意味するのは、あなたが主を知っていること、あなたが御霊を知っていること、キリストにあって、いのちの御霊の法の上に生きていくとはどういうことか、あなたが知っていることです。御父は、その法によって主を支配しました。私たちが主に結び付けられて、霊がひとつになるとき、主は、全く同じ法によって私たちを支配します。導き、指示は、御霊にあるいのち、御霊によるいのちが行うことです。主イエス様は、ご自身の生活を、あらゆる細部に至るまで、生かす御霊、すなわち、キリストにあるいのちの御霊による命令、支配、指示、手配にゆだねました。


すると、ユダヤ人たちが現れて、こう言ったのです、『私たちには聖書があり、その聖書が、あなたは、これこれをしてはいけないと言っているのに、あなたはそのことをやっている。聖書にこう書いてあるのだから、あなたは完全に間違っている!』その行動をされたとき、キリストは聖書の戒めを犯していたのでしょうか?あるいは、主は聖書に、神の真の意図を書き加えていたのでしょうか?神が律法を与えたとき、人がその表面に見るものよりも、ずっと完全なことを神は意図されていたのではないでしょうか?そこに、霊的な説明はなかったでしょうか?それが指し示していたのは、古い律法に取って代わるべき――壊すのではなく、それを置き換えるべき――ものとして生まれた何か、ただ、より高く、より完全で、より深い意味に達していたがゆえに、そのように意図された何物かではなかったでしょうか?キリストは神の安息です。神がすべての働き、新しい創造を終えて休息に入るのは、キリストにおいてです。それなのに、彼らは、『あなたがたは文字に従わなければならない!』と言ったのです。私たちがこのような説明をするのは、文字をそのまま受け取ることと、御霊が文字に光をあててくださることの違いを示すためです。神の御言葉の中では、いのちと文字がよく対比されます。文字は殺し、御霊は生かします。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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