2020年6月20日土曜日

【Daily Open Windows】6月20日

六月二十日

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二十五)

策略の巧妙な使い手であるサタンが好んで用いる手段のひとつは、ものごとを極端なところまで突き詰めることです。サタンは、ガラテヤの信者たちを、律法に徹底的に従わせようと試みました。しかし、サタンはやがて、そのやり方を進めることができなくなり、パウロが戦いに勝利します――これは疑いのないことです。敵は、次にどのような手で攻撃してくるでしょう?『それなら、よかろう』と敵は言います、『お前たちがこの法を捨てたいなら、どんな法も持たなければよい。律法は全部、捨ててしまえ。お前たちは、もはや律法のもとではなく、恵みのもとにいる――自分の好きなようにすればいい!自分のしたいように振舞い、やりたいだけ続ければいい。あなたたちには、もはや制約も限界もない。なんであれ、制約とは律法だ――そんなものはもう認めるな!反対の方向に突き詰めればよい――すなわち、律法ではなく、自律だ!』パウロがもし今日、生きていたら、他のものに対するのと同じくらい、この攻撃に対しても激しい怒りを燃やしたことは間違いないでしょう。ここにはまさしくサタンの働きがあるからです。サタンは、律法で縛ることによって、目標とするものの性質を変えることができないとなれば、逆にすべての律法を消し去って、私たちを全く法のないものに変えようと試みます。


しかし、覚えておいてください。このガラテヤ人への手紙が霊の解放の手紙であれば、それは同時に、聖霊による支配の手紙でもあります。私たちは、支配されているときだけ、自由なのです。私たちも、ときどき歌う、ジョージ・マシスンのよく知られた歌にあります、『私を捕らわれたものとしてください、主よ、そうすれば私は自由になれます。』

逆説的に聞こえますが、なんという真実でしょう。気ままに生きる道を選び、解放ばかりを重んじているとき、私たちは自由ではありません。間違えてはいけません。この手紙とローマ人への手紙、ヘブル人への手紙は、律法を捨てるように語る文書ではありません。彼らが、ユダヤ教の制度を全て排除したとしても、そのあとに、全く法に縛られない体制が生じるわけではありません。しかし、彼らは何よりも明白に、聖霊によるいのちと支配を導き入れます。覚えておいてください――聖霊に支配されている神の子供、本当に御霊にあるいのちを生きている神の子供の中に、神の原理を侵すものは絶対にいません。実際に、聖霊に支配された生き方をすれば、霊的な原理に心を向け、細心の注意を払うようになるでしょう。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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