2020年6月17日水曜日

【Daily Open Windows】6月17日

六月十七日

イエスは・・・言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」(マタイ二十・三十二、三十三)

私たちは、神から来ることがらを、自分の理性の助けを借りて見ることはしません。聖職を行う者が、分かり易く説明してくれたからといって、それによって見えるようにはなりません。そうではなく、見えるようになるのはただ、ナザレのイエスが私たちと触れてくださり、私たちも主にふれることによるのです。そして、これはキリスト者の人生のすべての段階に当てはまります。この数行を読めば分かるように、はじめは目を開かれていなかった者たちが、その目を開けられて見えるようになり、その結果として永遠のいのちを受けました――知ることとは、見えることと同じ意味を持った言葉で、イエス様もこう言っています、『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです』(ヨハネ十七・三)――ここにある『彼らが知ること』とは、見えることを別の言葉で言っているだけです――すなわち、あなたがまだ、主のいのちに入っておらず、永遠のいのちを受けていなければ、それは、いつかあなたの身に起こるものではないことを覚えてください。何もしなくても、どこかで起こることはないのです。あなたは、このことを何よりも強く心にとめる者となって、真剣な気持ちを主に示さなければなりません。すなわち、バルテマイのように泣き、『ますます叫び立て』なければならないのです。主はいつも、立ち止って、待ち、歩みを止めてまで、私たちが見ることの価値を理解しているかどうかを確かめることを覚えておいてください。どれだけ主から来るものを尊んでいるか、私たちは試されています。


そして、始まりにおいて真実だったものは、最後までずっと真実であり続けます。神からの啓示に終わりはなく、私たちが見ることにも終わりはありません。ああ、途方もなく大きな神の願いと考えと目的と意図のうち、私たちがこれまでに見たものはあまりに小さく、私たちが知っていることもあまりに少ないのです。私たちは、この神の広大な海の浜辺、そして、神が私たちを造られた目的と意図の浜辺に立って漕ぎます。私たちが、知っていることは、ほんの僅かです!――そして、心の奥深く訓練を受けるまで、知ることはありません。しかし、この浜辺はそこにあって、私たちのために存在しており、そして、ああ、私たちも、『ますます』――さえぎられてもひるむことなく、その浜辺に向かって進まなくてはなりません。あなたは、神の御言葉が語られた信者の大会や会合に参加した後、このような者となっていますか?神が見せようと意図したもののすべてを、確かに見たと言えるでしょうか?ただ、語られることばを聞いているだけですか?そのことばには同意した――しかし、その成果は何ですか?本当の成果は、この心の訓練、この泣き叫ぶ声の後で――すなわち、『ますます』叫びたてた後で現れます。主は、心を閉じて、意地悪く、その成果をあなたから遠ざけているわけではなく、それがあなたにとって、他の何ものよりも大きな価値があるかどうか、必要とあれば、あなたの眠り、あなたの休息より大切であるかを、知ろうとしておられるのです。主があなたの目を開くまで、主は休息することはできません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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