2020年6月15日月曜日

【Daily Open Windows】6月15日

六月十五日

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ八・三十四)

いつの日か、私たちのキリスト者としての人生が裁かれる終末のときが来ます。ですから、聖霊の働き、聖霊の関心、懸念、活力源、行動の目的とは、人間たちを入り口まで連れてきて、扉の中に入れることだけではなく、その扉は主へと続く道が始まるところに過ぎず、その扉の向こう側にすべてがあると理解させることです。大切なのは、扉だけではなく、その向こうに置かれているものであり、そこにあるのは、この新生であり、そこは、かたち作られた主の姿に合わせて新しくされるところです。終わりが全てを支配します。すべてのうちにおられるキリストこそ、聖霊が代表し、意味し、また、支えるものです。主ご自身の姿は、すべてを包み込むほどに広大なです。『キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです』という一文が、全てを統括する最終条項です。キリストのこの満ち満ちたさまこそが、私たちの救い、私たちの初めの救いよりもずっと大きなものです。扉はなくてはならないものですが、そこから入るべきかを決めるのは、その扉がどこに導くかということです。


キリスト御自身が、この地上におられたとき、人間たちがその扉、あるいは、そのまっすぐで狭い道に入ったとき、その先には困難が待っていることを、民に明白に伝えました。・・・さて、これは非常に恐ろしいことに聞こえるかもしれませんし、とくに、あなたたちのような、扉から入ってまもない若いキリスト者にはそうでしょうが、このことははっきりと理解しておいてください。すなわち、主イエス様はこのことで決して、誰一人として、欺いていません。主が、人々に教えたのは、主が当時、使われた言葉で言えば、『主についていく』ことは、彼らを、困難と苦しみと迫害と試練へと巻き込み、それは、生涯、続くということでした。そこには犠牲、大きな犠牲が伴います。そして、私たちが、いずれ気づくのは、その犠牲に対する償いは確かにあって、この世の生活においては疑いなく代償があり、また、永遠に続く力強い償いもあるとはいえ、それは生まれたままの人間にとっては、どこから見ても、容易い道とはならないということです。聖霊のこの働きは、劇的で、厳格で、また、肉に対して大きな試練となるものです。はっきり覚えなければいけないことですが、この働きを成し遂げるために、そこで、聖霊ご自身が持つ全ての活力が使われます。本当に、そうなるのです。主イエス様は、このことを、私たちに明白に説明され、疑う余地すら残さなかったのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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