2020年6月6日土曜日

【Daily Open Windows】6月6日

六月六日

また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(ヘブル三・十八)

自分自身がその安息を知らない限り、私たちは、救われていない人たちに、キリストのところに来て安息を見出すように指図する権利などありません。自分自身が安息の中にいるのでなければ、私たちの証しと主への奉仕は、危険にさらされ、弱められ、限定されたものとなり、信用もされません。これこそが、敵の活動の目的です――すなわち、私たちの信用を傷つけるために、主との一致という生まれながらの権利を私たちから奪うのです。その主とは、何があっても、絶対に脅かされることなく、不安を覚えることも、疑いに捕らわれることもなく、全てを支配するただ一人のお方です。お分かりのように、安息とは、この方こそが主であるという私たちの信念から生まれる実践的な働きかけであり、神の民に安息がないことは、支配者としてキリストの地位を傷つけるものです。・・・


今の自分の状況がこうなっているのは、あれこれのせいだから仕方ないというふうに考えてはいけません。それは、影響を及ぼす要因ではあるし、非常に大きな試みであり、私たちの上に、確かに重くのしかかっているかもしれません。肉体的な問題――これは確かに、大きな圧力となって、状況を過度に困難なものとし、強い影響を及ぼします。私たちが人生を送らなければならない環境、それは、確かに非常に大きな影響を及ぼすものであり、状況を過剰なほど難しいものにします。私たちは、こんなふうに言います、『ただ主が、この肉体的な問題、この苦しい状況やあれこれのことで、手を貸してくだされば!何もかもこの問題せい、これが、このことの原因、あのことの理由だよ。』私たちは、いつもこんなふうに話を持っていきますが、これは、主の考えとは全く違うものです。真実はこれよりもずっと深いところにあり、それは単純に神を信じるということ、揺るぐことのない信仰、神への信頼という問題です。主は、私たちを変わりやすく、落ち着きのない魂の生活から引き出し、全てが自分の感情、考え、論拠、そのようなものに動かされる生活から、霊にあって、揺るぐことのない領域へと導こうとしているのです。次の詩篇の一篇は、この事実へと集約されています。すなわち、『彼らの心は神に誠実でなかった』(詩篇七十八・三十七)のであり、彼らが荒れ野をさまよった四十年という時間は、このことから出ているのです。これに答える鍵は霊的であることです。ありとあらゆることば、ありとあらゆる手段で試されますが、究極的には霊的な問題です。御霊により、力をもって、内なる人を強くしていただく(エペソ三・十六)ことが、このすべてに対する答えです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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