2020年11月2日月曜日

【Daily Open Windows】11月2日

十一月二日

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ六・六十三)

聖書の中で、御霊についてふれられるときは、いつも、主のいのちとの関連の中で語られていることに気づいていますか?この主なるいのちとは、こうなると、義の問題です。『義の働き』とは、主のいのちの務め、または、顔のおおいを取りのけられて、人からの非難や裁きを怖れることなく、主のいのちにあって立つことを意味しています。この真理を認めることは、何よりも大切です。これが第一歩です。これは、私たちの信仰において、はじめに覚えるべきことのひとつです。専門的なはなしに聞こえるかもしれませんが、主の民には教えが必要です。励ましを受けるのは良いことです。証しをするのは良いことです。折りにふれて、御言葉が与えられ、満ち満ちた主の思いが述べ伝えられるのは良いことです。しかし、主の民として、私たちは、正しい教え、真実という基礎も必要としています。


今日、主の民の中には、基礎がしっかりしていないために、足元を踏みしめて堅く立つことができないと感じている人がたくさんいます。つまるところ、これまでの彼らの主との関係は大いに感情的なもので、夢見心地な気持ちでいたのです。そして、真実の土台を探り始める時、彼らの足元はぐらついています。敵が来る時、嵐が吹き付ける時には、自分がどこにいるのかも分からない有様です。私たちの救いの中の恍惚感、喜怒哀楽、その他、あらゆる皮相な感情が、強い敵意を持った圧力にさらされ、加えて、敵が告発を始める時、初めて土台が見つかり、その多くが崩れかかっていることに気づきます。主を信じている彼ら自身が失われてしまうことはありませんが、自分の救いを享受することに関して言えば、彼らはそれを失っています。だからこそ、私たちは、み言葉の中で徹底的に教えを受けることが必要なのです。そして、私たちが心と頭の中ではっきりと理解し、いつも霊において確信しておくべきことは、主のいのち――すなわち、明らかにされた主との交わりのいのち、それ自体が死に対する勝利と罰の消滅を表すいのち――は、それが与えるものすべてとともに、義に根ざしたものであり、義の働きであると言うことです。私たちは、神の御前で、確信と自負を持って、こう断言できなければなりません、『主よ、今の私は、キリストから離れていた時の私とは、まったく違います。信仰によってキリスト結びついている私は、あなたの義にあって正しいものです。何者も私を打ち破ることはできず、私は誰にもさばかれることはありません!』この土台に立った時、言わば、あなたは神に正面から語りかけることが許されます。神は、この土台に立って、ご自身を試すように私たちを招いています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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