2020年11月28日土曜日

【Daily Open Windows】11月28日

十一月二十八日

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ九・二十三)

十字架は、それぞれの人となりに合わせて用いられます。私にとって十字架とは何かということが、そのまま、あなたにとっての十字架とはなりませんし、十字架は一人一人に対して、まったく違う何かを意味しているかもしれません。それでいて、十字架とは普遍的なものです。これが大切な点です――中心であり、普遍的です。十字架はそろぞれに異なったかたちで触れ、また、一人一人に独自の疑問と問題を生じさせます。ここが十字架の難しいところであって、あるがままの私たちの姿で、十字架のもとに来て、十字架の働きかけを受け入れることが問われます。誰かのことで、『この人はどうするのがいいだろう?』などと言っても意味はなく、主は直ちに答えられます、『それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』十字架は、私たち一人一人に、個人的に、独自に、更に言えば、私的に働きかけるのであり、霊的な成長のために必要なのはただ、十字架が私たちの中で働きを行うこと、そして、私たちが個人的にそれに応えることです。


このように、十字架のはたらきを、どこにでもある一般的なものと捉えてはならないと、認識することは非常に大切です。それは、一人ひとりに特有のものでならなければなりません。ああ、愛する皆さん、これがただの教えや教義ではないことを分かってください。非常に大切なことです。しかし、ただ、私がそう言っているから、繰り返して強調しているから、あるいは、誰かの例を私が語ったからというだけで、これを受け入れることはしないでください。私がお願いしたいことはただひとつ、このことに対して心を閉じて、『そう教えられたから!』と言うことなく、ただ、主の前に、すなおで誠実な態度を取り、主に、『これは正しいことですか?』と尋ねることです。それが真実ではないと感じ、そのために、自分の中から、また、あなたの気質や生まれ育ちから偏見が生じる可能性が残っても、どうか、そうして欲しいのです。

あなたは、このような心で、主のもとに行って、こう言えるでしょうか、『主よ、私には分かりません。これを信じることは難しい。でも、もしこれが真実であれば、主よ、私はその真実を受け入れます。そして、私はあなたに、真理の土台の上で、私をしっかりと支えて欲しいのです。』私たちは、いつか主の臨在の中に立ったとき、こんな言葉を聞きたいと思うでしょうか、『わたしの子よ、あなたが機会を与えていたら、あなたをもっと充実した人生へと導いていたのに。』あなたは、このことで、本当に正直な態度を取り、主に向かって、心を開こうという気持ちがありますか?

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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