2020年11月11日水曜日

【Daily Open Windows】11月11日

十一月十一日

知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ九・二十三、二十四)

私たちが、主がしてくださって当然と考えるいろいろなことが、実際には起こらないのはなぜでしょう?ここにあるのは、証拠や証明や求めるたましいの渇望にすぎません。そして、この渇望があるからこそ、キリスト者の働きの中で、何か分かり易く、大きく、目を惹くものが建て上げられたり、また、大がかりな組織が作られ、大きな運動が発足して、外からよく見えるところに集まると、そこに大ぜいのキリスト者たちが群れを成して集まるのです。また、何かの明白な証明と見える壮大なものが現れると、そこにも必ず多くの人が群がってきます。敵は、証明や証拠が求められる世界で、聖霊の働きを模倣することによって、群衆の心を奪うすべを知っています。私たちはあまりにも、外からの影響を受けやすいので、証明や証拠を手に入れずにはいられないのです。これは、世の支配者たちを操っていたのと完全に同じ原理です。彼らは、十字架の原理がこのようなかたちで用いられる備え――自分を空っぽにして、主以外のすべてを断ち切ること――ができていなかったのです。預言者たちが、いつも語っていたことは何だったでしょう?主を知ることでした。預言者たちの時代、主の民に欠けていたのは、主についての知識でした。何かをしてもらうために、主を迎え入れようという気持ちを持った人はたくさんいましたが、主ご自身を受け入れるとなると・・・ああ、これは全く別でした。主は、あなたや私に何を求めておられるのでしょう?主は、私たちが初めに何かを行うことを願っているでしょうか?今日、神から来るものは何かという問題は、まず第一に、主のために行われていること、私たちが携わっている働きといったもの――すなわち、客観的で外面的なもの――と結びつけて考えられます。しかし、主が何よりも関心をもっておられるのは、私たちがどれだけのことをするかではありません。主が、強く気にかけておられるのは、私たちの行いが多いか少ないかとは関係なく、その行いのひとつひとつが、主ご自身の知識から出ているかということです。キリスト者の働きや活動においては、その量が多いか少ないかはどうでもよく、この点では他の仕事と同じですが、その働きがあなた自身の神の深い知識から生まれていないことはあり得ます。主が、他の何にもまして、心にかけておられるのは、私たちが主を知ることです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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