2020年11月5日木曜日

【Daily Open Windows】11月5日

十一月五日

神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。(使徒十・十五)

『どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。』ここに書かれているのは、聖霊の支配に逆らった例であり、そのひとつはペテロの伝統への執着であり、そして、エルサレムにいた人たちにおいては、ペテロの行いに対して、『彼を非難し』たことが挙げられます。その後で起こったことは、ペテロが再び同じ伝統の罠に陥り、そのことで、パウロはペテロと激しく論争しなければなりませんでした。大切な点として、主は霊的な成長を目指していたのですが、それを妨げた障害は、聖霊の支配に場所を明け渡す用意ができていなかったことでした。もし、神の子供、神のしもべが、その隠れた神との歩みと経験の中で、既に認められ定着している制度から外れた道、しかし、今までにはない新しい道、そして、世に受け入れられ、確立している慣習や社会のすべてと明白に対立する道へと導き入れられたら、そこでは、必ずと言ってよいほど、エルサレムで起こったこと、すなわち、疑い、論争、敵対が繰り返されることになります。


さて、愛する友人の皆さん、気を付けてください。私たちは、ここで自分自身を正直に受け止めなければならず、それができなければ、『神のなさることを妨げ』、『聖なる方の働きをとどめる』者とみなされるかもしれません。福音書と使徒行伝をもう一度、開き、そして、読み進めながら、こう考えてみてください、『どうして、このこと、あのことや、あのことが、世に受け入れられて歴史の中で確立してきた神の秩序に違反していると見なされ、また、そう解釈されてしまうのだろう?』実はあなたも、キリストにことごとく抗った人たちや、ただパウロの働きを妨害するためにだけ、彼をどこまでも追い回したユダヤ教回帰主義者たちの考えから、そう遠くないところに立っています。この人たちは、神の手で制定された秩序――と彼らが信じていたもの――に憧れ、熱心に追い求めていました。

時代を超えて、神のあらゆる動きは、人間が神の秩序と信じていたものと衝突し続けてきたのであり、そして、その動きに加わった者たちは悪魔の働きをしているとみなされてきたことが、あなたにお分かりではないでしょうか?キリスト自身がそうでしたし、また、使徒たちにも同じことがありました。神が、信じる民を増やすために働かれ、そのために、凝り固まった慣習の枠組みを踏みにじられた時、このようなことが何度となく、繰り返されてきました。思慮にかける的外れな標語を掲げたり、また、聖句の一部分を間違えて用いる(たとえば、『実によって彼らを見分けることができるのです』)ことを、誰でも簡単にやってしまいます。非常に多くの場合、大きな傷を残すこのような短剣の一刺しは、ただ、主の子供たちの誰かを、新しく不思議で奇妙な方法で用いていただく機会と権利を、主に与えなかったという理由によることが、非常に多いのです。・・・・このことから、あらゆる広がりと成長のために、私たちは、神が新しいこと、不思議なこと、その時は理解できないことをされるための余地を必ず残しておかなければならないことが分かります。自分の凝り固まった判断に主を縛り付ければ、私たちは、霊的に成長させたいという主の御心の外側に、自分を押し出してしまうだけです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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