2020年11月9日月曜日

【Daily Open Windows】11月9日

十一月九日

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ二・二十九)

十字架は、霊的な割礼の道具として、今の自分の生き方の深いところまで用い、また、これからも一層、深く用いていかなければなりません。そこには終わりがないように見えます。しかし、これは十字架の苦しい側面、暗い面です。別の面では何が起こっているのでしょう?キリストの場所が備えられているということではないでしょうか?本物の種、キリストの種は大きく育っており、これまでよりもはっきりと現れてきています。これまで大切である考えてきた性質――知性や感情や意思の強さ――の反対は柔和さです。主は言われました、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい』(マタイ十一・二十九)。この事実に最後まで従って行けば、主ご自身の存在の奥底に、他の何物とも根本的に違うものがあったことに、あなたも必ず気づくはずです。


前に言ったように、自分の原理で動くこの考え方は、自己顕示欲、自己執着、自分への注目、自己憐憫、自意識過剰、そして、自己満足といった無数の形態を取って現れ、そのすべてを数えあげることは、とてもできません。キリスト者としての生活、主への献身においてさえ、私たちは、自分をどれだけ捧げているか、自分たちがどれだけへりくだっているか、人に気付いてもらうことを喜びます!そして、そこにいつも、浮かび上がってくるものは、自我、惨めで――こう言っていいですか――悪臭を放つような自我です。本当の神の子供ならば、自分を忘れ切っており、自分自身という意識をあらゆる面で捨て去っています。彼らの良いところを誰かが指摘しても、神の子供たちはそれが何のことか分からないし、気付いてもいなかったのです。神の子供たちは、賞賛を受けると驚くだけで、そんなことは気にもかけません。一方では、人に批判されて、間違いを指摘されたら、神の子供たちは、こう答えるだけです、『はい、分かっています。そのことは主と話し合って決着をつけています』、あるいは、『たった今、主の御前にそれを明らかにしました。そのことで、自分を偽ろうとは思いません。』これこそ、本物の天の子供です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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