2020年11月3日火曜日

【Daily Open Windows】11月3日

十一月三日

神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(第一コリント一・二十)

この世界から得られる限りの膨大な知識と情報を持っていても、また、誰よりも賢く、知識や他のことでもっとも富んでいる者ですら、キリストのもとに来るときには、霊的な事象のいろはから習わなければならない、これが真実です。・・・・私たちは、ほどなくして、自分が何も知らないということに気づかされます。主は、『裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう!』と言われました。もしも、主が、かつて住んだ地上の世界とは別の世界にいたことがあったら、もし、主が今の西洋の世界に行っていたら、こう言われたのではないかと思います、『知識に富む者が御国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。』西洋世界が鼻にかけている知識、知恵と知性は、御国への大きな妨げとなります。この世界は、本当に何かを知ろうという用意ができていません。ユダヤ人の世界の外に踏み出した時、パウロが絶えず言い続けたのは、この世界の知恵こそが大きな障害であるということでした。ユダヤ人にとって、大きな富を望むことが妨げであったように、異邦人たちにあっては、より多くの知識を求めることが妨げだったのであり、生まれたままの心から出てくるものは切り捨てなければなりません。それは、私たちが御国へ入るための妨げとなります。


主とのつながりの中で長く生きるほど、私たちは、自分が何も知らないことを思い知らされます。私たちには自分が何も知らないという思いがあり、いつも、知識を得たいと願い続けています。霊的な知識に至る王道などはなく、私たちは、第一歩から始めて、その道を歩みながら、主のことを学んでいくしかありません。若きキリスト者として歩みだす時、私たちは自分が何ごとかを知っていると信じ込んでいます。しかし、もちろん、これは、若さゆえの愚かさというものです。私たちは全てのことを、新たに学び直しています。生来の私たちが持っている知識を全て集めて、それがどれだけ大きなものとなろうと、ここでは価値がありません。霊的な知識とは、全く別のものです。全てをはじめからやり直した私たちであっても、次のような立場を受け入れ、すなわち、『今、私には全てを学び直さなければならず、私の心は開き、学びたいと熱望している、私は何ひとつ知らない』という気持ちになってはじめて、主は教えることができます。おごり高ぶった者は、何ひとつ学ぶことがありません。主は、何かを始めるとはどういうことか、私たちの中で古いものが終わって、新しいものが始まるために十字架が持つ意味とは何かを示してくださいます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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