2020年11月12日木曜日

【Daily Open Windows】11月12日

十一月十二日

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(第二テモテ四・二)

主の祝福を受けた善良な人たち、主に好意的に見られ、また、主に大いに用いられてきた人たちでさえ、どこかで妥協する心が生まれたら、最後は霊的な悲劇に巻き込まれることがあります。その妥協は、自分で考えた方策の故に生まれたのかもしれません。方策とは、人を誘い込む罠のようなものではないでしょうか!私たちは、あれやこれをして、こんな結果、あんな結果にならないように気をつけなさいと自分に言い聞かせます。これは全て、方策であり、交渉術に過ぎません。『これをしないように気を付けなければ・・・・』――いったい何を?私たちがしないように心掛けることによって、心の全てが表れます。私たちは、人からの敬意、助け、仲間、地位、機会を失うことを怖れているのでしょうか?私たちには、このようなことが、主への絶対的な従順よりも大きな重みを持っているのでしょうか?もしそうなら、私たちの忠実さは二つに分かれています。そして、そのままにしておけば、最後には、恐ろしい悲劇、妥協の後に必ず続く悲劇に陥ることになります。・・・


霊的な完全さに達するために、私たちは、人間的な考えではなく、神と天の原理に支配されなくてはいけません。それは、神の原理であって、『この結果はどうなるだろう?』ではなく、『私たちが失うものは何だろう?』でもなく、『主は何を失うことになるだろう?』ですらありません。これは全く些細な問いかけです。主は、私たちがこのような浅はかな考え方に立って、結論を導くことを求めておられません。主は言われます、『神の原理とは何か?その原理に支配させ、導かせなさい。』これがどのような結果につながるのか、分からないかもしれません。あなたが神の原理に支配されているなら、ここで多くを失うように思えることもあります。一時的には、ダビデとともに消えて、外で待つことになるかもしれません。しかし最後には、その原理が正しかったことが必ず分かります。この原理に対して妥協すれば、必ず大きな災いがもたらされることに気付いてください。それは、至るところで見られます。・・・・私たちはこう言わなければなりません、『主は何を示されたのだろう?そのために、このようになり、この犠牲が伴い、私にも影響が及ぶだろうが、それはどうでもよい。何が起ころうと、私はそれに動かされないし、支配されることもない。私は、人間の信条には動かされない。神が現わされたもの――それが私にとって、ただひとつの論拠となる。』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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