2020年11月13日金曜日

【Daily Open Windows】11月13日

十一月十三日

人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(第二コリント三・十六、十七)

何からの自由でしょう?そう、前に話したように、主の方を向いて、心に主のことだけがあれば、聖霊が私たちを自由にします。あなたは今、自由を求めてもがき、奮闘し、戦い、格闘し、祈り、嘆願し、求め、渇望し、主に頼んでいるところでしょうか。それは、非難からの自由、恐怖からの自由、栄光が現れたとき、イスラエルを捕らえて麻痺させていた束縛からの自由です。恐怖から、不安から、恐れから、非難からの自由を求めていますか?自由になるために、何をしていますか?ただひとつ、簡単で直接的な方法があります。主のことだけを思い、主に立ち返ることです。神が満足されたお方としてのキリストを受け止め、自分で神を満足させようと試みるのはやめてください!キリストへの信仰だけを、神は求めています。


この御言葉はなんと深い真実でしょう、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。』『わたしにとどまりなさい。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。』これは、比喩的な表現であって、この言葉が語るのは、いつも、主のことだけを心におき、心を主のほうに向け、主の中に住まい、主の中に憩い、主の中にとどまりなさいということです。あるいは、パウロなら言うでしょう、『主だけを見つめ、主を見上げなさい、』主をあなたの働きの目的としなさい、そうすれば、御霊があなたを自由にします。

それ以上に、こうしてキリストを見つめることは、御霊があなたを神の似姿に変えることを意味しています。すなわち、『反映させながら・・・姿を変えられて行きます。』こうは言っていません、『反映させながら、私たちは自分の姿を変え始め、』必死で奮闘し、ぶつかり合い、戦いながら自己変革に乗り出します。そうではなく、私たちは、主の御霊によって変えられるのです。いつも、キリストのことだけを思っていれば、御霊が主の御姿へと変わるところを引き受けてくれます。自分のことしか頭になければ、ただ、形式に合わせるというという法則に従うことになります。すなわち、あなたが持って生まれた型があれば、その型に合わせて変わっていきます。もし、キリストがその型であれば、御霊が主の御姿へと一致させるでしょう。そうなると、心がキリストで占められていれば、それだけで、聖霊が私たちを新しい契約の祭司としてふさわしいものとしてくれることになります。結局のところ、私は、祭司としての努めが、それほど苦労の多いものであるとは思っていません。私たちは、本来、単純で自発的なものであった主の務めに立ち戻ることが必要です。キリストのことだけで心が占められていれば、聖霊が、キリストにあって心に常に留め置くべきものは何か、更に示してくれます。そして、主がそれを生き生きとした現実に変えてくれる中で、あなたも、何か人に与えるものを持つようになります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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