2020年9月18日金曜日

【Daily Open Windows】9月18日

九月十八日

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント四・七)

世界には今も、人間の中に神の栄光に寄与できるものがあり、キリスト教とは、神の栄光の助けとなるものを人から引き出して作られているものだと考える人が多くいます。これは、非常に長い間、信じられてきた誤った考えであり、偽りです。事実ではありません。どのような名で呼ぼうと同じことです。事実、それは、『内なる光』、『いのちのきらめき』など、いろいろな名前で呼ばれています。この事実の上に、真実を伝える神の御言葉が、はるか高いところから、豊かに降り注いでいます。私は、ゼロから始めるのであり、ゼロとは、私に貢献ものは何ひとつない状態を意味します。全てのものは、神から与えられなければなりません。神からの贈り物が、永遠のいのちである以上、神から与えられない限り、それを受けることはできません。神が見る力を与えるまで、あなたは盲目です。神が、主のいのちを与えるまで、あなたは死んだままです。神が、あなたのために、そして、あなたの中で、自分では決してできない何かをしてくれるまで、あなたは希望のない不具者のようなものです。神がそれをしてくれなければ、そして、それが現実に行われなければ、あなたは言わば、そこに横たわったままです。霊的に、これが今のあなたの状態です。あなたに貢献できることは何もありません。・・・・


あなたと私が、キリストの学校へ学ぶべき大きな課題のひとつがここにあります。すなわち、神は、栄光を受けるためにゼロから始められ、また、御霊を通して、今の状態がゼロであると私たちに気付かせるために痛みを与えます。私たちをゼロへと導いたことを気付かせたうえで、そのすべてが主から来ていることを理解させるのです。・・・・私たちは、このことが完全に分かっているでしょうか?私たちは、とても長い時間をかけて、この基本的で初歩的な課題を学びます。それでも、私たちは、自分が何がしかを生み出せるという考えにしがみつこうとする者であり、そして、みじめな日々を送っているのは、ただ、自分にも価値ある何かを主に与えられるという期待を今も抱いているからです。それが何かを見つけることができなくて、すぐに心をくじかれてしまうと、惨めな、完全に打ち砕かれた気持ちにさせられます。このことを完全に、最終的に納得できるまで、とても長い時間がかかるので、これまで、この地上で生まれた誰よりも長く生きたとしても、私たちには、神に受け入れてもらえるもの、神が取り上げて、私たちの救い、私たちの聖化、私たちの栄光のために用いてくれるようなものを、何ひとつ、一滴たりとも、寄与することはできません。神が用いることができるのは、御子の他にはなく、そして、私たちの最終的な栄光の大きさを計るものは、私たちの中にいるキリストの大きさに他なりません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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