2020年9月29日火曜日

【Daily Open Windows】9月29日

九月二十九日

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(第一コリント二・十四)

心から来る行動、感情に基づいた生活や意思こそ、新約聖書が、生まれながらの人間と呼ぶものであって、その人は、『たましい的な』人であるがゆえに、神の御霊から来るものを受け入れる力がありません。リバイバルと呼ばれているもののほとんどすべてが、このような人たちを土台として起こってきました。これは、力強い運動で、感情を揺り動かすものであったし、教鞭な説得と論争が行われて、人の理解と意志に影響を及ぼしてきました。その結果はどうだったでしょう?生まれたままの人間が、何かに操られるようにキリスト教へと向かい、キリスト教徒に変えられました。しかし、私たちから見れば、この中に、神の思いを認めることはできないし、新生とは何の関係もないものです。上で説明したようなリバイバルの中で、確かに、『新生』は起こったのかもしれません。しかし、あえて言いますが、心理的な新生と、御霊にある新生とは異なるものです。人は、本物の新生に特徴的な性質を一時的には、すべて備えることがあるかもしれません。しかし、それがすべて、御霊と何か関わりを持っているとは限らず、実際には、非常に多くの場合、それは、御霊は一切、関わりはなかったのです。それは、人間の働きです。・・・・キリスト教は、神の思いを人間的に解釈する制度となってしまいました。霊的な死がその上を覆っています。これでは、神のための生きた証しとはなりません。神は、御心とつながる重荷を、私たちの心に与えられたのです。私たちは、批判するために語っているのではありません。語らなければならないから、語っているのです。・・・・


神の権利のために、ひるむことなく、立ち上がる人たちは、いつでも、神の思いを拒絶する人たちからは、敵とみなされます。・・・・このような人たちは、宗教的な制度が支配するところでは必ず、その制度と敵対し、神の民を混乱させる者たちとみなされてしまいます。このことが、主のためのはたらきを困難にします。このことが、主のためのはたらきの代償をこれほど大きくしているのです。イスラエルは、巧みにだまされてしまい、偶像崇拝の中にいながら、自分が正しいことを行っていると信じ込んでいました。これはもっとも巧妙な欺きであり、自分がやっていることが何も見えなくなり、また、誠実な気持ちから行っていながら、実際には悪魔に仕えています。預言者との不一致が始まったのは、イスラエルからではありません。預言者の戦いは、イスラエルが巻き込まれた霊的な制度全体に対するものです。敵が彼らを扇動しなければ、『宗教的』な人たちは、この預言者の奉仕に反逆しようとしません。しかし、そうなるときは、彼らは悪魔の道具となります。預言者の方は、このような状況と向かい合う用意ができています。預言者は誤解され、中傷を受け、そして、敵視され、また、イスラエルに害を成すものという烙印を押されます。しかし、預言者には、神の幻が与えられています。預言者は、自分自身に仕えているのではありません。自分の立っている場所に、個人的な欲望が入り込む余地などないことを知っています。しかし、預言者は、神を見たのです。預言者は、神とつながっています。そして、神とともに立つ特別な場所いる預言者の前に、神なるものと人間の違いが示されました。こうして、神の幻を見た預言者は、神への奉仕のための代償を背負う用意ができたのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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