2020年9月8日火曜日

【Daily Open Windows】9月8日

九月八日

ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。(マタイ二十一・十五)

主は、オリーブ山にのぼり、へりくだって柔和なことばで、ご自身を王として示されました。移り気な群衆は、もちろん、この地上の可能性に飛びつきましたし、弟子たちは今回も、皆、その中にいます。しかし、マタイ伝二十一章十五節までくると、ユダヤ人たちのあいだのイスラエルの本当の状態が描かれ、そして、主が語っていたのは現世に建てられる政治的な王国のことではないことに気づくと、移り気な群衆でさえ、すぐに同じ気持ちになったことが分かります。そして、彼らがいだいていた期待が、湧き上がる疑念にかき消された時、群衆は、支配者たちとともに、こう叫びだします、『除け。除け!』このことばの背後、奥深いところに隠されたものが第十五節にあります。すなわち、主に対する明白な敵対意識であり、そこに主を求める気持ちはなく、もちろん、ねたみと嫉妬から掻き立てられた思いだけがあります。人々の願っていたことが、はっきりと現わされた場所がオリーブ山でした。・・・・


まさしく、彼らの思いと主の思いはあまりにもかけ離れたものであり、そのことは、最期に明らかになります。オリーブ山は、何よりもまず、人々が何を求めているのか、その核心へと迫ってゆきます。起こっていることについて、その真相を知ることはできません。うまく行っているように見えたり、また、非常に好ましいものと目には映っても、実際には、その全てが、誤り、嘘、偽りなのかもしれません。より高きところで天的な立場を得て、その高みから、全てについての真実を見渡せる日まで、あなたにも知ることはできません。これが、原理原則であり、歴史の中でもこのようになります。信じる民に向けた神の完全な御心の崇高さをあなたが示しても、それを聞く民の方が、地上で繁栄し、多くの成果をあげ、賞賛を受ける神の働きに加わりたいという気持ちでいたら、実際のところ、その民は、主が自分の考えや欲求と歩調を合わせているときしか、主と歩調を合わせようとしないでしょう。しかし、その歩みがこの世的な思いと逆行するようになると、その思いが主に関わることであっても、そこに、すぐに、より深遠な何かが生じてきます。彼らが、それを受けることはできません。あなたは、それを何度も見てきました。あなたは、彼らのものに手をふれてはいけません。彼らが、主のためであると言っても、あなたは手を触れてはいけません。それは、彼らが自身のためにやっていることです。あなたが、主のための務めを行い、また、主を語ることで、彼らが行っているいろいろなことを助けようとしなければ、もちろん、彼らが主を知ることはなく、結局は、次のような結果に終わります。すなわち、彼らは主を受けることはありませんし、それは、彼らが求めている主ではないのです。彼らが求めている主とは、自分たちが主のためにしていることを、地上で達成させてくれる人です。本物と偽物を見分け、明確に区別できるようになるのは、あなた自身の方がより高いところにいるときだけです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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