2020年9月26日土曜日

【Daily Open Windows】9月26日

九月二十六日

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ六・三十三)

多くの場合、何かを第一に求めるということは、自分のものを全て手放すことを意味したのです。・・・・私たちを落胆させるものは何でしょうか?私たちは、いつもこのように言えるでしょうか?すなわち、自分が主に対して落胆したり、主のされることで落胆していると思うとき、その落胆は、私たちが自分の利害を顧みず、主ご自身に望んだものを手に入れて欲しいと、強く願ったからこそ生まれたものであり、私たちはすべてを手放す覚悟ができていたし、そのことで、私たちの側には何の迷いもなかったと。主が望むものを受けることについても、私たちは心のどこかで、そこで自分がどうするかということを考えています。この二つは、あまりに交じり合っているので、そのあいだに入って、はっきりと切り分けるためには、非常に鋭い道具が必要になります。主の益となる道から、私たちが完全に閉め出されているとき、信仰はぐらつき、弱められ、そして、多くの場合、まっすぐ下に落ちて、隠されてしまうのではないでしょうか?


では、信仰の鍵とは何でしょうか?信仰への鍵とは、魂と霊を分けること、ことばを換えれば、利己心の徹底的な抑制です――仏教における無我という考え方とは異なり、神の益に前向きに取り組み、かつ、それが心を支配するという意味です。信仰の戦いが激しくなるのはここであり、この戦いは常に、この土台で湧き上がるものです。私たちが、徹底した心がまえでいたら――実際には、そのような人はいないのですが――すなわち、主の益だけに全身全霊を傾けていて、自分の利益が優先したり、生活を支配する力を持つことがなければ、私たちは常に勝利の内にあります。主が望むものに対して完璧に自分を捨てたこの献身こそが、信仰への鍵です。もし荒れ野にあったイスラエルが、次のような態度をとっていたらどうだったでしょう。すなわち――『そう、今は確かにとても辛い状況だけど、主には何か目的があるはずだし、主は何かを求めておられ、そして、これがその目的を果たすための最善の道であることを主は間違いなくご存知だ。そう、私は、主とともにあり、すべてを失い、すべてを奪われる苦しみを味わうかもしれないけれど、大切なのは、主が何を望んでいるかということだけだ。主は、私たちがあの土地に入ることを望んでいるし、それが主にとって全てであれば、その場所に入って、主を喜ばせることこそ、本当に価値のあることだ。』彼らの取った態度がこのようであったら、彼らは四十年間に渡って、当てもなく荒れ野を歩き回ったり、その土地に入る手前で逆戻りして、荒れ野で滅びていたでしょうか?その土地に入った次の世代は、この信仰の大切さのみに拠って、これを成就したのです。この物語はその全てが信仰に基づいているのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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