2020年9月17日木曜日

【Daily Open Windows】9月17日

九月十七日

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。(申命記八・二)

イサクが神からアブラハムへの贈り物だったことに、疑問の余地はありません。イサクは完全な奇跡であり、神が与えたのでなければあり得ないことでした。聖書にはまた、こうあります、『神はアブラハムを試練に会わせられた。』アブラハムは・・・・一度、息子のいのちをあきらめ、それから、息子を取り戻し、その時、国全体も手に入れたのです。・・・・アブラハムは、手放すことによって国を手にするのです――これは、すべてを投げ出した神の御子を予兆しています。・・・・これは、実に実践的なことではないでしょうか。ああ、どうすれば、このようになるのでしょうか?自分を、完全に捨てきることによってです!しかし、これはとてもできないことです――誰でも、自分を見ているからです!自分の意志、自分の関心、自己実現といったことはサタンの王国であり、神はこのようなものを通じて、あなたに御国を与えることはしません。・・・・


これは、現実の問題です。私は、どんな時も、自分がこのようなものの中で生きないように、また、自分の隠れた願望、自分の動機によって行動してはいけません。ああ、私たちの心は実に頼りないものです!あなたも私も、おそらく、主にすべてを捧げる用意ができているでしょう。私たちの気持ちは真剣で、揺るぐことはありません。私たちは、本当に心を込めて、声の限りにこう歌います、『自分を捨て去り、主であるあなたを全てとします。』そして、自分自身が、心の底からこのように思っていて、自分の心には、あやふやなところなどないと信じています。それでも神は、真剣なはずの私たちの気持ちが、見えない動機によってくじかれ、いつでも敗北してしまうことを、よくご存じです。そして、私たちの心の真剣さは、試みの中に置かれて初めて証明できます。だから、主は私たちを試みに合わせるのです――希望を与え、それから、絶望させます。私たちはどう応えるでしょう?私たちの悲しみ、痛みは、主のため、それとも、私たち自身のためでしょうか?私たちは、ただ希望を失ってしまうのでしょうか、それとも、心から主だけを思い、自分をまったく無にしているでしょうか?私の言いたいことがお判りでしょう――試みの中に置かれるのは、結局、『自分を捨て去り、主であるあなたを全てとする』心を本当に持っているかを見極めるためです。このことを確かめるためには、現実的なかたちで、現実の試みの中に置かれるしかありません。主は、その全てを既にご存知ですが、主がご存知なだけでは十分ではありません。ご存知のように、私たちが信仰に入るためには、知性的、そして、協力的であらなければなりません。これが、あらゆる試練の要点です。主は、指先のひと振りで、何でもおできになりました。意のままになんでも、機械仕掛けのように動かすこともできました。しかし、私たちは、道徳が支配する世界におり、神は人間に対して、道徳に基づいてはたらかれます。人間には意志があり、それがゆえに、道徳的な責任を負った者とされるのですから、人は自分の意志に基づいて行動するとき、神と協力しなければならないのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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