2020年9月4日金曜日

【Daily Open Windows】9月4日

九月四日

いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(使徒七・四十八)

ステパノが見たもの、そして、新約聖書が記し、暗に示し、また、伝えていることとは(この面での記念碑的な書物とは『ヘブル人への手紙』です)、ソロモンは――せいぜい――ずっと偉大な『御子』の姿を暗示する象徴に過ぎなかったこと、ソロモンの宮は、あれだけの栄光、富、美しさがあってもなお、『手で造ったのではない家』の方角を指し示しただけだったという事実です。それは、ペテロが――困難と痛みを通って変えられた後で――神の霊的な家と呼んだ家のことです。ステパノは、この長い歴史の全体を、『預言者たち』として包括した上で、事実上、次のようにまとめています。預言の精神は、この時代の先にある、前向きで最終的な神の霊的目標点につながっていたと。


では、このすべては結局、何を意味するのでしょう?ある面から見れば、ここで、神の民の治しようもない性向と気質が、さらけ出され、告発されました。それは、本質的に天的なものを地に引き下ろして、縛り付け、また、霊的であるものを世俗的なものに変え、また、永遠なものをその場にとどまることのない――とどまることのできない――何かに変え、そして、形式、手段、秩序や技巧を何よりも重んじる性向と気質です。一言で言えば、ものごとを縛って、箱に詰めることによって、常に前向きで、常に至上の動きと進歩をできるはずの聖霊が、働きを妨げられ、くじかれるようなものです。新約聖書に書かれたもっとも力強いことば、もっとも大切な叫びはこれです、『進もうではありませんか。』しかし、この叫びの文脈とは、『宿営の外』にあります。ヘブル人への手紙でこれらのことばを書いた人には、ステパノと多くの共通点があり、次のことを明白にしています。すなわち、『宿営の外』が意味しているのは、そのユダヤ教的な性質の中で、キリスト信仰を制度化、結晶化して、一組の定まった形式、すなわち、地上に縛られて、そこで、終わってしまうものに変えてしまおうとする試みの外側ということです。別の面から見れば、ここで書かれたことは、このような制度化されたキリスト教からの、純粋で明らかに霊的な証しに対する攻撃が、どれだけ激しく苛烈なものかということを明らかにしています。同調することを拒めば、そこでは、少なくとも、排斥が起こり、最悪の場合、殉教することになるでしょう。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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