2020年9月7日月曜日

【Daily Open Windows】9月7日

九月七日

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ二・三)

神とともに歩むとき、神のために前に進み出るとき、私たちは何を期待しているのでしょう?何が起こると考えているのでしょうか?この質問への答えによって、神との関係の中に、地上のものを求めているか、どうかが分かるのではないでしょうか。お分かりですか?つまり、人間が生まれつき持っている願望を、霊的な目的へと傾けてゆくことは、誰にでもできるのです。同じことをしていても、そのはたらく方向、領域だけが変わっていくのです。神の働きにおいても、世にあるのと同じように意欲的であってもよく、それは、生まれたままの自然な願望です。それは、生まれたときから持っている、何かをしたいという強い意欲です。あなたの願い――あなたの求めることは何ですか?何かを見ること、何かを持つこと、何かの中にいることですか?成功したいという願望、確かに世にあっては、それがありました――今は、その願望が別のものへと向けられています。・・・・


これは、私たちが、キリスト者の働き、キリスト者の努めの中でさえ、この世で繁栄や成功とみなされるものへの欲求を捨て去ったと、神の前で言える境地に達しようとしていることの現れです。キリスト者たちの間で得られる大きな機会、有利な立場、また、手の中にある報償も投げ打った上で、『主はご存知だから、こんなものはどうでもいい。与えるのも、与えないのも主が決めることだ。私は報償をもらうために列に並ぶつもりはない。こんなことで、私の神との歩みは左右されない。自分の個人的な願望が行く道を決めるようなことは、決してない』と言うことができたら、それは間違いなく成長している証拠です。それは、この地上では、そう大したことには見えず、そこに扉が広く開いているようには思えないかもしれませんが、あなたは、そこに主のいのちがあり、霊的な支配があり、そこには価値ある何かが存在することを受け止めます。最後には、その大きな価値は、必ず認められます。はじめには、人間的な願望との衝突を避けられないことがありますが、その時は、あらゆる外からの忠告と影響を心から締め出さなければなりません。こうなって初めて、私たちは、主のいのちを生きるとは、たとえ、すべてを失ったとしても、神と共に進むことであると認めることになります。いのちの御霊の原理はこのように働いています。・・・・主なるいのちの道は、私たちが主の御前に戻って、こう述べることを求めています、『主よ、私のこの世的な望みは消え去り、私の願いはひとつとしてかなえられませんが、私が欲しいのはあなただけです。あなただけが私の願望、私の目的です。主であるあなたさえいてくれたら、他のものには大きな価値はありません。』この境地に達することができたら――この道の終端近くまで至ったものは多くはありません――しかし、そこに達することができたら、そこで、主のいのち、よろこび、解放の奥義を見つけることができると、私は信じています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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