2020年9月2日水曜日

【Daily Open Windows】9月2日

九月二日

あなたがたのためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロ・・・(エペソ三・一)

啓示の完全さに近づこうという試みには、常に、それに付随する代償が伴っていました。証しをするひとつひとつの道具は、主にとっての価値の大きさに応じて、疑いと非難のもとに敷かれましたが、人間的に見れば、彼らはそこで受けた制限の中にとどまってきたと言えます。多くのものが、引き下がり、倒れ去り、遠ざけられ、疑われ、恐れられ、そして、問い質されてきました。しかし、パウロが言ったように、『私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄』(エペソ三・十三)なのであり、また、パウロは、『あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった』(エペソ三・一)のですから、主にあって受ける制限の大きさは、主を信じる人々においては、豊かさの計りでもあります。啓示があまりに豊かなものであると、捕らえられる人はそれだけ少なくなり、そこから遠ざかったままでいる人の数は多くなります。啓示とは、苦難と制限を通して、初めてもたらされるものであり、経験を通して啓示を受け取ることは、その代償を何らかのかたちで負うことを意味します。しかし、これこそ神が、ご自身の霊的な苗床を守るための手段なのです。・・・


これはそのまま、主の証しとの関わりの中で、個々の生活にも当てはまり得ることです。しばしば、制限や監禁を受け、もっと広く、縛られないものをひたすらに求める中で、傷を負うことも多くあるでしょう。もし、主が、今のこの場所に私たちを置こうと意図されたのなら、その事実を信仰の中で受け入れることによって、それが、人間的な考えではとても判断できないほど大きく成長することになるかもしれません。パウロは、自分が牢獄に入れられたことによって、彼自身の主イエス様にとっての価値が、一九〇〇年間にわたって、途絶えることなく大きくなっていくとは想像もしなかったことでしょう。個々人に当てはまることは、そのまま、地上に散らばってはいても、主の完全な証しを通じた交わりという面ではひとつになっている、主の民の団体、集会や集団に対しても当てはまります。主が、大きな恵みをもって、牢獄の壁の人間的な側面だけを崩し、そして、人間や環境によって制限されているのではなく、主のうちに幽閉されている事実、あらゆる時代、あらゆる世界がこの牢獄を通ってきたいう事実を、悟らせてくださいますように。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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