2020年9月6日日曜日

【Daily Open Windows】9月6日

九月六日

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ三・三)

新約聖書においては、割礼は霊的で内面的なものとみなされています。パウロは、はっきりと述べました、『外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。・・・心の割礼こそ割礼です』(ローマ二・二十八~二十九)。『神の御霊によって礼拝を(する)、・・・私たちのほうこそ、割礼の者なのです』(ピリピ三・三)。割礼とは、霊的なこと、内面的なことであり、心の問題なのです。そして、これが意味するところは単純で、主イエス様の十字架にあって、生まれたままのいのち、また、生まれたままのいのちを論拠とする考え方、自我のいのち――自我のいのちの願い、自我のいのちの欲求――が、十字架によって、切り捨てられたということです。自我のいのちの表現と側面の全てが、十字架によって切り裂かれ、隔てられた扉の向こう側に置かれています。生まれたままのいのちの現れに対して開かれている扉は、ひとつもありません。十字架は言います、『この扉は閉じられ、その上には死が置かれる。』これが、霊的な割礼です。ステパノは、自分が殺される原因となった、比類なき問いかけの言葉の中で、彼を迫害し石を投げようとしている人たちに向かって叫びました、『かたくなで、心に割礼を受けていない人たち』(使徒七・五十一)。『心と耳とに割礼を受けていない』とは、何を指していたのでしょう?ステパノが言おうとしていたのはただ、彼らが、自分が欲するものを求め、願うだけで、それ以上の思いはなかったということです。偏見は、割礼を受けていない心だけに現れる刻印です。偏狭さも同じであり、また、ステパノを死へと導いたのと同じ状況を作り出すものは全てが、割礼されていない心を示すしるしです。そう考えるべきです。それでも、なお、自我、生まれつきのいのちが顔を出して、主張ししようと試みます。まだ、自我の欲求と意識が消えることなく、でしゃばってきます。十字架、霊的な割礼は、そのすべてに対して、『だめだ!』と言っています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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