2015年4月10日金曜日

獄中のウォッチマン・ニー


獄中のウォッチマン・ニー
呉友琦(ウ・ヨウチ)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私は中国の上海から来ました。私の名前は呉友琦(ウ・ヨウチ)と言います。今年(2003年)で68歳を迎えます。私はもともと高校の教師でしたが、「三面紅旗」政策に反対したかどにより、1960年に反革命の罪に問われ、7年の実刑判決を受け、極東最大の刑務所である上海の提籃橋(ティランチャウ)刑務所に収監されました。

(三面紅旗政策とは、毛沢東が推進した三つの政策、総路線、大躍進、人民公社を包含する呼称。)

ニー兄弟が逮捕されたのは1952年のことでした。その後、彼はあたかも地球上から姿を消したかのようでした。誰も、彼に何が起こったのかを知りません。しかし、主を賛美します。主は私のように卑しい人間をも憐れんで下さいました。主が私を特別に愛し、覚えて下さったおかげで、獄中のウォッチマン・ニーついて知っていることを、私はこうして皆さんに伝えることができます。



(1963年から1972年まで)合計9年間、私はニー兄弟と共にいました。2年近くの間は、別れ別れになっていました。けれども、主をほめたたえます、主はついに私たちを再会させて下さり、私は、ニー兄弟が、主によって取り去られる3日前まで、彼と一緒にいたのです。この年月については、たくさんの証があります。ニー兄弟もやはり人間です。今日は、彼の人間的な側面について証したいと思います。

1963年に、監獄で調整があり、その結果、私はニー兄弟がいたのと同じ階の、同じ班に入れられ、同じ監房で並んで眠ることになりました。その時以来、私たちの絆は決して解かれることがありませんでした。ティランチャウはとても大きな監獄でした。合計10棟の建物があり、それぞれの建物が5階建てで、一つの階には90個の監房がありました。一つの監房に、平均、3人いたとすると、一棟につき、1000人以上の囚人がいたことになります。そのように巨大な監獄で、何千人もの囚人がいる中、特定の囚人に出会うことは困難です。私が第三号監房でニー兄弟に出会ったのは、主の采配によるものでした。

私たちの監房には、ニー兄と、私と、20歳余りの青年がいました。彼は精神疾患のために、はっきりと喋ることができませんでした。「おー、おー、おー」と声を出すことしかできず、いつも頭を垂れて、右手を胸から離しませんでした。なのに、彼も反革命分子とされていたのです。兄弟姉妹の皆さん、正直に言いましょう、この監房に入った時、私はニー兄弟に少しも友好的な態度を取っていませんでした。私は彼に反感を抱いていたのです。彼を嫌っていましたし、軽蔑していました。彼とは口を利きたくなかったのです。なぜって?彼が班長だったからです。

監獄には、何人かの囚人を取りまとめる班長がいました。私の目から見ると、あらゆる班長が、政府のご機嫌取りをしている、政府のスパイでした。彼らは囚人を踏みつけ、踏み台にして出世し、自分が減刑されるためならば、他人の刑期を増やすことをいといません。そもそも、どうして私が刑務所にいなければならないのでしょうか。私は盗みも、強盗もしていませんし、殺人も、放火もしていません。何でもないことを喋っていただけで、逮捕されたのです。ですから、私は彼を恐れていました。あえて話しかけようとは思いませんでした。

私たちの監房には3人いました。一人目は精神疾患で話すことができない青年、二人目はニー、そして3人目が私です。ニーは毎日、何か書きものをしていました。私のことを密告しているのでなければ、誰についての報告書を書いているというのでしょう?私が彼に話しかけたいと思う理由はありませんでした。朝から晩まで、四六時中、私は彼とは一言も口を利きませんでした。彼は扉の前に座って書きものをしています。なぜ扉のそばに座っているのでしょう?私たちの監房の幅は、1.5~6メートルしかありません。両手を伸ばせば、壁に届きます。長さも2メートルほどです。三面の壁には窓がなく、正面には鉄の扉があります。扉の近くには少し灯りが差し込んでいました。それで、ニー兄弟は何かを書いている間中、鉄の扉のそばに座っていたのです。

食事と飲み水は戸口付近に置かれました。扉を開ける必要はありません。戸口から手を突き出して、食事を取って、中に入れるだけです。ニーは扉のそばに座っていたので、食事はすべて彼が私たちに手渡していました。私は彼と口を利きたくなかったので、一度も彼にお礼を言いませんでした。でも、彼の方ではお礼を言っていました。私たちの関係はたいへん気まずいものでした。

それから、主の采配により、ある事件が起こりました。私にはかけがえのない一人の身内である、妻がいました。彼女は上海水産大学を卒業し、高校で化学を教えていました。私たちには幼い娘が一人いました。囚人の家族は、月に一度、監獄に面会に訪れて、物資を届けることが許されていました。妻は私をとても愛していましたので、毎月必ず面会にやって来ました。私の方では、彼女がまだ学校で教えていると思っていたのですが、実際には、彼女の身にも大変な出来事が起こっていたのです。

ある日、学校の校長が彼女に尋ねました、「周(チョウ)先生、聞くところによれば、あなたのご主人は反革命分子で、今、監獄にいるそうじゃありませんか?」彼女は「はい、そうです」と答えました。校長は言いました、「あなたは彼と離婚しなければいけません」妻は問い返しました、「どうしてですか?」校長いわく、「政府の規定によれば、反革命分子の家族は、人民の教師になってはいけないのです。あなたの夫は反革命分子です。反動的な思想の持ち主なのです。あなたは彼と接触を保ちながら、どうやって生徒を教えられるのですか?あなたは彼と離婚しなければなりません。」

妻は反論しました、「結婚した時、彼は反革命分子ではありませんでした。彼はボクサーだったのです。上海を代表して国際コンクールに出ていました。彼が反革命分子になったのは、結婚後のことです。もしも私が今すぐ、彼と別れて別の人と再婚したとしても、その夫も、将来に反革命分子とならない保証はありません。そうなったら、私はその夫とも離婚して、また再婚すべきなのでしょうか?それに、私たちには娘が一人おりますが、私はまだ若い身ですから、再婚すれば、子供がまた増えてしまうでしょう。それは今の子供の成長にとって良くありません。

それに、呉友琦(ウ・ヨウチ)の判決は懲役7年です。彼の出所を待って、それから、私は社会主義建設を続行できます。私たちはまだ夫婦でいられるはずです。」彼女の言い分は完全に道理にかなっていました。校長と教務主任は彼女を説得できませんでした。しかし、彼らがあきらめたりするものでしょうか?そんなことはありえません。間もなく、校長はもう一度、彼女に尋ねました、「あの問題について考慮されましたか?」妻は答えました、「考える暇がありませんでした」校長は言いました、「それなら、私たちからも、もう猶予はさしあげられません。これは政策なのです。あなたの身分証明書を返却しなさい。離婚しないなら、学校を辞めるしかありません」


当時の中国大陸の状況は、現在とは全く異なっていました。一旦、学校を辞めれば、他の仕事はもうありません。彼女には他にできる仕事がないのです。妻は学校を去って、泣きながら家に帰りました。頭の中は真っ白でした。今後、どうすればよいのでしょう?どうやって生計を立てればよいのでしょう?娘をどうすればよいのでしょう?彼女は家に帰ると、幼い娘を抱きしめて、泣き崩れました。誰も彼女を慰める者はありませんでした。

その後、面会に訪れた際に、彼女は自分の置かれている境遇を、一部始終、私に話してくれました。それを聞いて、私は非常な怒りを覚えました。こんなにも滅茶苦茶な話があるでしょうか?無実の私を反革命の罪に問うただけでは飽き足らず、彼らは妻と娘まで見逃さないつもりなのです。妻は言いました、「今日は、腕時計を売ってから、面会に来たのよ。でも、この先、どうやってやりくりすればいいのか、もう分からないわ」

兄弟姉妹の皆さん、私は殺人も、放火もしていません、盗みも、強奪も、爆破工作もしていません、私は国民党でもなければ、スパイでもなく、地主でもないのです。何の悪いこともしていないのに、私がどうして反革命分子なのでしょう?私は反動的なスローガンを一枚も貼ったことはありません、反動的なアジビラを一枚も配ったことはありません。なのに、どうして私が「反」革命だというのでしょうか?納得できません。けれど、どうすることもできないのです。妻は泣きじゃくっていましたが、私は一滴の涙もこぼしませんでした。私は幼い頃から赤旗の下で成長して来ました。共産党は、敵前で涙を見せないよう私を教育したのです。今日、私は皆さんに一滴の涙も見せることはできません。けれども、そもそも、私は皆さんの敵ではなかったのです。私はこの政権を支持していました、人民解放軍が政権を握った時、私はわずか12歳でしたが、解放軍を祝して、大輪の赤い花束を贈りさえしたのです。それなのに、この政権は私を一方的に敵とみなしたのです。この敵とは、あなた方が自分で作り出したものです。面会の5分間はすぐに終わり、妻は娘を抱いて、去って行きました。私は彼女を見つめながら、なすすべもなく、立ち尽くすしかありませんでした。彼女が私と離婚してしまわない保証はありません。不意に、妻はこちらを振り向くと、大声で言いました、「元気でね!」その叫び声は、今でも私の耳に残っており、心臓が張り裂けそうです。私にできることは何もありませんでした。走って、外に飛び出すこともできません。機関銃を構えて、彼らと闘うこともできません。黙って、痛めつけられるのを耐え忍ぶことしかできないのです。

看守に背中を押されて、私は監房に戻りました。涙をこらえることができませんでした。監房には、机も、椅子も、寝台もありません。私は壁にすがって泣きました。すると、誰かが私の手を握りました。それが、うっとうしいニー兄弟であることは、分かっていました。腹が立ちました。私にとって、彼は最も嫌悪すべき人物なのです。私の手を握って、何をしようというのでしょう?彼とは口も利きたくありませんでした。彼の同情など欲しくなかったのです。そこで、私は彼の手を振り払おうとしました。私はボクサーで、当時、まだ若かったのに対し、ニーは年老いており、心臓病を患っていました。ちょっと振り払いさえすれば、彼は鉄の扉の方へ吹っ飛んだことでしょう。ところが、兄弟姉妹!とても奇妙なことが起こったのです。これは一つの奇跡でした。手を上げようとしても、どうしてか、上がらないのです。ニー兄弟の力はべつに強くはなく、私は少なくとも3回は手を持ち上げようとしましたが、自分の手を上げることができませんでした。そして、ニー兄弟が、耳のそばでこう言うのが聞こえました、「友琦さん、お泣きなさい。泣いた方が良いですよ、そうした方が、気分が晴れます」彼の言葉に私は心を打たれました。監獄には規則があり、それによれば、声に出して泣くことは、禁じられていました。なにしろ、囚人全員が悲しみに暮れていたのです。一人が泣き出せば、誰も彼も泣き出し、監獄全体が泣き出して、収拾がつかなくなったでしょう。それでは再教育に良くない、というわけです。私は、ニー兄弟がきっとこう言うだろうと想像していました、「泣いてはいけません。泣くのは間違っています。再教育に従って、正しく振舞いなさい」彼は班長であり、政府の側に立つべき人間です。それなのに、その彼が、声に出して泣くように私に勧めるなど、考えられもしませんでした。このことを通じて、彼に対する私の見方は変わりました。私は声を上げて泣きました。泣き声が監獄中に響き渡るのを、気にもしませんでした。看守がやって来て、殴られて、銃で撃ち殺されようとも、構いませんでした。私の家族が、ぎりぎりのところまで追い詰められているのです、私は自分が死んだとしても構いませんでした。ところが、おかしなことに、看守がやって来る気配はありません。しばらくして、私は疲れきって、泣きやみました。ニー兄弟は、私が涙を拭うためのタオルを差し出してくれ、喉の渇きを癒すために、飲み水を持ってきてくれました。私たち二人は、床に腰を下ろしました。その時、初めて、私は彼と話をしました。私は自分の境遇を彼に語りました。意外なことに、ニー兄弟の方でも、何の隠し立てもなく、彼と家族をとりまく状況を話してくれました。

この日から、私たちの会話はだんだんと多くなっていきました。彼は自分がとても忙しい身だと話してくれました。彼はクリスチャンであり、彼の妻も、彼をとても愛しているとのことでした。彼の妻は深刻な高血圧を患っており、血圧は低い時でも、104、105、高い時には、200以上であり、いつ死んでしまっても不思議ではありません。全ては主のみ守りと、憐れみのおかげだそうです。ニーは早く刑期満了して、出所して、妻に再会することを願っていました。彼の刑期が、あとちょっとでも長引き、彼の妻が少しでも早死にしてしまうなら、彼が妻に再会するチャンスは、二度となくなってしまうでしょう。彼の妻は、私の妻と同じで、とても夫を愛しているようでした。その他にも、彼は多くのことを話してくれ、二人の会話はますます盛んになりました。彼は言いました、クリスチャンが国の指導者に対して反対することはできないのだと、なぜなら、国の指導者は全て、主によって立てられたものだから、と。彼は私に福音を説き始めました。彼の話を聞いて、私はこう考えました、私は自分は明らかに無実だと思っていたけれども、こうしてみると、彼も無実であるらしい。なにしろ、彼も政府に反対しなかったのだ、クリスチャンは指導者に反対しない、それなのに、彼も反革命とみなされたのは、事実無根ではないだろうか?私は彼に尋ねました、あなたは今でも主を信じているのですか、と。彼は答えました、「あなたは信じていなくとも、私は信じています。なぜなら、あなたは見ていなくても、私は見ているからです」これは、彼の台詞そのままの引用です。短い台詞ですが、私はしっかり覚えています。

24年前、ある兄弟が私を訪ねた折、私は彼にこの奇跡について話して聞かせました。私は言いました、私には未だに納得できないのだと、なぜ私は手を上げようとしても、上げられなかったのでしょうか?私の力はとても強かったのに、彼が私の手を握った時、振り払おうとしても、できなかったのです。その兄弟は納得した様子で、こう言いました、あなたは決して自分では手を上げられないでしょう、主があなたにそうさせないからです。それを聞いて、私は理解しました。私は卑しい人間に過ぎないのに、主が私を見つけて下さり、主が私を選んで下さったのだと。私はこれから先も、決して、自分で手を上げることはできないだろうと。

今やニーと私との関わりは改善し、多くのことを話し合うようになりました。もう一人の精神疾患の囚人も、嬉しそうに、そばでずっと笑っています。彼もたくさん喋っていたのですが、私にはほとんど内容が理解できませんでした、最も多い時でも、半分くらいしか分かりませんでした。けれども、ニー兄弟はすべてを理解しており、私に通訳してくれました。そんな風にして、私たち3人は共に日々を過ごしたのです。

けれども、幸福な時は長くは続きませんでした。ある日、役人がニー兄弟を外に呼び出しました。ずいぶん時間が経ってしまい、昼食も終わってしまいました。今や私たちは良好な関係にあったので、私は彼の昼食を包んで取っておきました。以前なら、気にもかけずに、捨ててしまっていたことでしょう。彼は戻ってきて、ちょっと動揺した様子で、床に腰を下ろしました。私は聞きました、「何があったんですか?」彼は言いました、「彼らは私に信仰を捨てさせようとしているんです」「それで、言うことを聞いたんですか?」と、私。「いいえ、聞きませんでした」続けて彼は言いました、「彼らは私に信仰を捨てさせたいのです。もしも言うことを聞くなら、釈放して家に帰らせてくれるでしょう」「それでも、あなたは従わなかったんですか?」と、私。彼は答えました、「従いませんでした。他にも二人の囚人が呼ばれていました。そのうち一人の姓は藍(ラン)、もう一人の姓は張(チャン)です。ラン氏は上海の有名な病院の院長で、チャン氏はある県の知事でした。二人ともカトリック教会の有望な信者でした。」私は尋ねました、「それで、その二人はどうなったんですか?」彼は答えました、「二人とも信仰を捨てました。あなたにもすぐ分かるでしょう」それからすぐに獄内放送が響き渡りました。監長がアナウンスしました、「ここに二人の囚人がおりますが、政府の再教育を通して、この者たちは思想を転換しました。態度を非常に良好に改め、公の場で、過去に持っていた信仰を捨てて、反革命的見解を放棄しようと願っています。今から二人が証言します」そして、ラン氏とチャン氏が話し出しました。彼らはまず自己批判し、次に、カトリック教会は、帝国主義と反革命に支配された諜報機関であると言って、カトリック教会を非難しました。彼らは、自分たちは欺かれていたが、政府の再教育を通して、公に迷信を捨て去り、反革命的集団を離れて、徹底的に悔い改めたのだと告白しました。二人とも激しく泣き叫んでいました。彼らが話し終えた後、監長が宣告しました。獄長の許可を受けて、この二人は刑期を短縮して釈放されることになり、彼らは今日、家に帰れるのだと。(監長は監獄の監房のトップ、獄長は監獄の十の監房の最高のトップです。)兄弟姉妹、これを聞いて、監獄中の囚人が衝撃を受けました。私も驚きました。目の前にいるニー兄弟を、まじまじと見つめて、私は尋ねました。「あなたはたった数日前に、こうおっしゃったじゃありませんか。あなたの奥さんはとても素敵な方で、あなたたち夫婦は、とても愛し合っているのだと。それに、奥さんは重い病気で、危ない状態にあって、心配でたまらないのだと。今日、人民政府はあなたを釈放しようというんです。ただ一言、信仰を放棄したと言いさえすればいいんです。ただ口を開きさえすれば、家に帰れるというのに、あなたはそれをしなかったなんて!一言も同意しなかったなんて。あなたは一体、どういう人なんですか?そんなにまで、あなたが神を信じているなんて!私にはあなたという人が分かりません…」 

兄弟姉妹の皆さん、私は幼い時に、あるハンガリーの詩人ペテーフィ・シャーンドルの一編の詩を学びました。彼はこう書いています。

生命はまことに貴いが、 
愛情の値はさらに高い。 
だが、自由のためならば、
どちらとも捨てて構わない。

この詩は、自由がどんなに貴いかを物語っているのです!今日、人民政府はニー兄弟に自由を与えようというのに、彼はそれを望まないのです。主のために、ニー兄弟は、生活も、愛も、自由さえも手放したのです。彼は三つとも手放したのです!それほどまでに、彼が主を愛し、主を信じていることに、私は大きな感動を覚えました。共産主義者たちは、ニー兄弟の魂を脅かし、深刻な影響を与えることを目論んでいました。彼が信仰を捨てなかったので、見せしめに、目の前で二人を釈放したのです。けれども、ニー兄弟は動じませんでした。彼の魂は動かされませんでした。しかし、私の魂は動かされました。私は、この人が口が利けないわけでもなく、精神疾患を患っているわけでもないことを知っていました。その彼が、これほどまでに主を信じているのには、何か理由があるはずです。イエスを信じるのには、きっとそれほどの良い理由があるのに違いありません、私もニー兄弟と同じように、イエスを信じたいと思いました。その時から、私は主を信じ始めたのです。誰でも主を信じるべきです。罪の贖いのために、主が必要です。救いのために、主が必要です。

ある兄弟姉妹は私に尋ねます、回心にあたって、あなたはニー兄弟のどの著作、どの論文を読んだのですか、と。私は答えます、主を信じるに当たって、私は彼の文章を読んだわけではありません。私は彼の文章を読んだから、信じたのではないのです。彼と知り合った時、私はまだ信仰を持っておらず、彼の文章を読んだこともありませんでした。私は彼の人格を読んで、それで主を信じたのです。中国のことわざにこうあります、言葉をもって教えることは、身をもって教えることにはかなわないと。私は彼の実際の行動を見、それが私に伝染して、私は主を信じたのです。ニー兄弟も一人の人間です。私は個人的な感性を通して彼を知り、それで主を信じたのです。このことは、とてもとても深い影響を私に与えました。

このようにして、ニー兄弟を通して、私は獄中で救われました。ニー兄弟は、決して、獄中で高い壇上に立って、両手を掲げて、こう叫んでいたわけではありません、「皆さん、あなたがたは皆、信じなければなりません!」それで、何万人もの人々が回心したわけではないのです。ニー兄弟は獄中で、共産主義政権と闘って、それを打倒して、監獄の英雄になったわけでもありません。そんな話は嘘です。事実はただ一つ、彼はただ信仰を堅く持って、捨てようとしなかっただけなのです。私たちは真実を語らなければなりません、私はキリストにあって、嘘でなく、真実を語っています。私の良心は聖霊によって感動し、御霊が私に証をさせています。

私たちが二度目に会ったのは、安徽(アンフェイ)省にある白茅嶺(バイマオリン)労働改造農場でした。そこで、私たちはもう5年間も人生をむなしく過ごさねばなりませんでした。再会した時、私たちは二人とも感激して、私は一遍の詩を詠みました。

どれほどお互いに寂しく思っていただろう 
なのに、再会の時はあまりにも遅く訪れた 
主の計らいを予知するのは難しい 
本来、同郷人であるはずの私たちが 
安徽省の地で再会するとは、何と悲しいことだろう!

その時、ニーの病状はとても重く、年老いた彼は、やっとのことで歩いていました。私たちの住まいから、食堂までは、60~70メートル離れていました。私たちは低地に住んでおり、食堂は坂を上がったところの道路の近くにありました。食堂まで行って、ご飯を運んで来るためには、二つもの丘を越えて、道路を横切らなければなりません。ニー兄弟には、それは不可能なことでした。そこで、毎日、私が彼のために、三度の食事を運びました。ある日、役人が私を執務室へ呼び出して尋ねました、おまえはどうして、毎日、ウォッチマン・ニーのために食事を運んでいるのかと。私は言いました、「彼は年を取っていて、病気で身体が弱り果てています。二つもの丘を登ることはできません。だから、私が彼のために食事を運んでいるのです、そうするのが当然だと思います」ところが、思いもよらないことに、役人は怒った顔つきで言いました、「そんなのはでたらめだ。そいつは仮病を使っているだけだ。自分で食事を運ぶよう彼に伝えろ。おまえはもう二度と運んではならん」彼らがニー兄弟に嫌がらせしているだけなのは明白でした。そこで、当然、私は彼らの警告を気にとめませんでした。

数日後、私が食堂から食べ物を運ぼうとしていた時のことです。厨房にいた炊事夫が私に言いました、「ウォッチマン・ニーに食事を運ぶことは、何人もまかりならんと、上部からのお達しを受けている。彼が自分で取りに来るべきだ」そこで、私は寮に帰って、ニーに一部始終を話すしかありませんでした。ニーが聡明な人であることを私は知っていました。そこで、何か良い方法を考えるように、彼に勧めました。そばに座って、私は彼が良い考えを思いつくのを待ちました。長いこと待って、ついに彼が口を開きました、「万事、なるがままに任せましょう」私は大変、驚きました。なりゆきにまかせて、主の采配に素直に従おうというのです。私は不安でしたし、また、怒りを覚えました。どうしてそんなことが言えるんでしょうか?「あなたはご飯を食べたくないんですか?」けれども、私は彼と言い争いたくありませんでした。そうすると、残る手立ては、自分の食事を彼に分け与えることしかありません。と、その時です、主を賛美します、主は私のような愚かな人間にも、良いアイディアを下さったのです。私はそれまで、たった5両のご飯しかもらっていませんでした。けれども、炊事夫に、今日は沢山働いたから、もう一両くださいと申し出ることができます。食堂はそのことに疑いを抱かないでしょう。そこで、私は6両のご飯を運んで来て、ニー兄弟に2両食べさせることにしました。彼は年を取っていますから、それで十分でしょう。私は4両食べます。普段よりはちょっと少ないですが、まあ、何とかやり過ごせるでしょう。そのようにして、毎日、私たちは食事を分け合い、ついに難関を切り抜けました。

1971年のある日、役人が私に、ニー兄弟宛てに実家から送られた、一通の手紙を手渡しました。その手紙は、彼の妻であるニー姉妹が椅子から転げ落ちて、肋骨を二本折って、緊急入院したとの報せでした。私はニー兄弟に心配しないようにと伝えると同時に、すぐに、上海にいる家族を見舞う許可を求めて、請願書を書くように、彼に勧めました。私は、彼に付き添うつもりでした。実際に、ニー兄弟と私は、とうに刑期を満了していましたので、理屈の上では、もう囚人ではないはずでした。しかし、1966年、中国に文化大革命が起こり、刑期満了した囚人は、一人も釈放されなくなってしまったのです。それでも、規則によれば、私たちは年一回、家族のもとを訪れ、半月は、そこに滞在することを許されていました。大きな事件が家で起こったのだから、一度くらい、私たちを家に帰らせてくれるだろうと、私は思っていました。

役人は、当初、この件についてはよく考慮すると、ニー兄弟に言いました。ところが後になって、彼らは言いました、「あんたは重い心臓病で歩くこともできないのに、どうやって上海まで行くつもりなんだ?」ニー兄弟は、私が彼に同行する旨を伝えました。すると役人は、このことについては再度、考慮すると告げました。私たちは半月も待たされました。再び役人に尋ねると、彼は眉を釣り上げて言いました、「あんたたちが行ってどうなるんだ?あんたたちは医者じゃないだろう。それにあんたの妻の病気はもう治った。そう報告を受けている。請願は考慮したが、許可するわけにはいかない」ニー兄弟は一言も言い返しませんでした。彼は私にも言い返させませんでした。一緒に寮に戻ると、彼は黙って祈りました。幾人かが、彼が唇を動かしているのを見て、私に尋ねました。「ニーさんは祈っているのではありませんか?」私は答えました、「違いますよ。彼は気功をやっているだけです」役人も尋ねたので、私は同じことを答えました。しかし、私は知っていました、ニー兄弟は一日中、祈ることをやめないでいたのです。

ついにある日の昼頃、私が作業から戻って来ると、ニー兄弟は顔をいっぱいに涙でぬらしていました。ニー姉妹が亡くなったのです。ニー兄弟はとても悲しんでいました。私は彼に、悲しまないで、お葬式には参列できるように、もう一度請願してみましょうと提案しました。今度こそ、許可されるだろうと、私は思っていました。待ちに待った挙句、また不許可になるとは、思いもよりませんでした。役人は言いました、「どっちみち、彼女はもう死んだんだ、あんたたちが行って、今更、何ができるっていうんだ?」兄弟姉妹、これに勝る苦しみを、どんな人が味わったことがあるでしょうか?ニー兄弟の心は、どれほど痛んだことでしょう。しかし、彼は主だけを求めていました。堅く主を信じて、彼はすべてを耐え忍びました。

その時、ニーは一遍の詩を読みました。 

千回も泣き、千回も叫んだ、
聞き慣れている君の声、
どうして返事をしてくれない?

私(ウ・ヨウチ)はこの詩を読んで、続きを書きました

何回も報告を出し、何回も請願を出した
肉親の葬儀に駆けつけたい、
人のひたすらな願いを
どうして許可してくれないのです?


ニー兄弟は命をかけて、主を愛したがゆえに、恐るべき苦痛を味わいました。しかし、数日後には、彼は悲しみを抜け出し、普段通りの生活をし、毎日、堅く祈り続けました。

九ヶ月の後、彼は白雲(バイユン)山に異動になりました。それは東方の草深い田舎の僻地でした。歩くことさえできない一人の心臓病患者が、一人でトラックに乗せられて、私たちに別れを告げたのです。三日後に、私たちは彼の訃報を耳にしました。

肉体的な苦痛に加えて、精神的にも、ニー兄弟は苦しめられました。彼は生涯、多くの苦しみを耐え忍んだだけで、何一つ、獲得したものはありません。けれども、彼は主を獲得したのです。彼は、私たちに、彼自身を通して、主を証してくれたのです!彼は一つの器に過ぎませんが、この器には宝が入っているのです!

今日、私たちは、ここで自由に叫ぶことができます、「主よ、あなたを愛します」と。中国大陸のどこででも、「主よ、あなたを愛します」、と叫ぶことができます。しかし、極左政権の支配下においては、そうすることはできなかったのです。ニー兄弟は生涯を通して、主を愛しましたが、20年もの間、制限の下に置かれ、ただの一度も、声に出して、「主よ、あなたを愛しています」と、言うことを許されなかったのです。想像してみて下さい、もしもあなたが20年間も、お母さんや、奥さんや、子供や、愛する家族に、「大好きだよ、愛してるよ」と、言うことができないとしたら、我慢できるでしょうか?けれども、ニー兄弟は全てを耐え忍んだのです。ですから、今日は彼のために、三回、大きな声で、一緒に叫びましょう、

「主よ、あなたを愛しています!」 
「主よ、あなたを愛しています!」
「主よ、あなたを愛しています!」

終わり